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まほろば 奈良教会長コラム

平成28年9月度実践目標

2016.9.1

平成二十八年九月度実践目標

 先輩から受け継いだこそ

   “道場観の修行の基本”と心得、実践を!

 

十日は、脇祖さま報恩会です。脇祖さまの慈悲の生涯を通して、身近な先輩の菩薩行

に学び、報恩感謝の心で悦びの布教に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは、老いの輝きです。次のようにご指導下さってます。

 

 いま日本には、後期高齢者と呼ばれる七十五歳以上の人が千六百四十一万人いるそうです。私もそのうちの一人ですが、この後期高齢者の後期いう言葉に、輝(く)の二文字をあてて光輝高齢者と書いた書面を頂いたことがあります。七十五歳をすぎて、ますます光り輝く 高齢者が元気に活躍するイメージが伝わり、気持ちが明るくなります。しかし、活動的で溌剌とした人だけが光り輝く高齢者なのかというと、必ずしも

そうではないところにデリケートな問題があります。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり。道元禅師の有名な歌です。この歌は、春夏秋冬のそれぞれが、ありのままに独自の輝きを放っていることを伝えています。すべてが天地自然のはたらきであり、それぞれがすばらしいということでしょう。

 この視点に立つと、スポットライトを浴びるような活躍をすることだけが光り輝くことではなく、人生における晩秋といえる高齢期においても、一瞬一瞬をありのまま、素直に受けとめているかどうかが大切であります。

 つまり、元気に活躍することもさることながら、自分がいまあることそのものに目を向け、そこに映る輝きや有り難さに気づいている人をこそ、ほんとうの意味で光り輝く高齢者というのではないかと思うのです 

 老いには、ほかの世代にはない輝きがある一方で、つらいと思わせられる現実があることも否定できません。当人のみならず、高齢の家族の介護をされている人からすれば、光り輝く高齢者という言葉もきれいごとに聞こえ、むしろお金もかかり、面倒なこともと、やり場のない思いを溜めこんで苦しんでいる方もおられるでしょう

 ただ、人にはいえない苦労や複雑な思いを抱え、愚痴をこぼしながら、それでも元気になってほしいと願う。心の奥底で、一所懸命に尽くしたいと思う。そういうあなたの深い思いやりの心を呼び覚ましてくれたのは、間違いなく介護を必要とするその家族です。だとすると、介護をする人の慈悲心に灯をともすきっかけとなった家族の姿こそ、光り輝いているにふさわしいと私は思います。

 教会道場で学んだ仏さまの教えを家庭や社会で発揮する。それが一人ひとりの生きがいとなり、周囲からも喜ばれる。お互いに助けあうことも、声をかけあうことも当たり前で、道場には思いやりがあふれている。道場で見られるそのような光り輝く高齢者は、きっと若い世代の方々の目標となり、地域においても大切な役割を果たすのではないでしょうか。

平成28年8月度実践目標

2016.8.1

三つの実践、三つの基本信行は、“まず 自分から”という

思いやりの心・ほとばしりの心で!

 

十五日は、戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日です。また、今年から施行される国民の祝日「山の日」を通して、天地自然の恵みに感謝したいと思います。

会長先生のテーマは、「まず自分から」です。次のようにご指導下さってます。

・私はときおり自宅の周辺で、道路に捨てられたゴミを拾うボランティアの若者たちを見かけます。じつに清々しい光景です。私も散歩がてら、妻とともに道に落ちているゴミを拾い集めたことがあります。そのときに気づかされたのは「捨てなければ拾わなくてすむ」という当たり前のことですが、そのおかげで「私はけっして捨てまい」と心に刻むことができました。同時に、道が汚れて気になるのであれば、人を責める前に「まず自分から」行動おこせばいいということを教えられた気がします。

気づいたら、まず自分から~~ゴミ拾いに限らず、それは気持ちのいい日常生活をおくる手立ての一つです。そこで大事なのは、その行ないが自然な心のはたらきであること、そして実践する自分がそれを楽しいと感じることだと思います。

私たちは、みな仏の御いのちをいただいている菩薩です。ですから、「している」という意識や、「させられている」という不満があると楽しみにはならないでしょう。大自然が無償の恩恵を注ぐように、困っている人がいたら自然に手を差しのべ、汚れている場所があれば率先してきれいにする。そしてそれが楽しいという以外、何もとらわれるものがない。仏の遊戯三昧にも似たそういう心であることが、「まず自分から」の実践ということになるでしょうか。

・この春、熊本県を中心に大きな地震が発生しました。だれにいわれるでもなく物資を届け、話に耳を傾け、一緒に涙して苦しむ人を励ましつづけた方々。そのなかのお一人は、「自分がなぜ、寝食も忘れてそうするのか、自分でもわからない」と語っておられたそうです。

「仏は慈悲して慈悲を知らず」という言葉がありますが、自らの心に突き動かされ、そうせずにはいられない。だから、けっして苦しいともつらいとも感じず、むしろそのご縁を喜びと受けとめて走り回っておられる様子が目に浮かびます。

「まず自分から」と率先躬行し、あるいは「まず人さま」と心を砕き、まさに心の銘じるまま、とらわれることなく、喜びをもって救いに奔走されたみなさんの、こうした話をうかがうと、一人ひとりの思いやりが実践にうつされたとき、そこにどれほど大きな安心が生まれるのかをあらためて教えられた思いがします。

家族を労り、まわりの人を思って「まず自分から」心を寄せ、力をあわせるなかに、みんなが気持ちよく生きられる平和な世界が訪れるのでしょう。また、平和という意味では、積極的な行動だけがそのための「実践」ではなく、批判したくなるような人や許し難い人を包容していくこと、そういう意識の変革も、私たちの大切な実践行ではないでしょうか。

平成28年7月度実践目標

2016.7.1

布教伝道は、「自らの心田を耕す精進」 と 

    どこまでも謙虚に、仏さまにひれ伏す実践を!

 

七月に入り、夏休みを迎え、子どもとのふれ合いがいっそう大事になってきます。

会長先生のテーマは、「人を育てる」です。次のようにご指導下さってます。

 

・親が子を育てる。教師が生徒を教育する。先輩が後輩を育成し、上司が部下の成長をうながす。社会にとって、また家庭や組織にとって、いずれも大事な営みです。それだけに、いつの世においても、人間社会の課題の一つとして教育や人材育成のむずかしさがあげられます。

では、人を育てる立場の人は、「何のために」、そして「だれのために」人を育てるのでしょう。見た目には相手のため、そして組織や集団のためなのでしょうが、私は、一義的には、自分を磨くためのよい機会が人を育てることであり、教育とは相手の縁にふれて自分も共に育つことだと思います。そのように受けとめると、相手に対して過剰な期待をしたり、性急に成果を求めたりすることがなくなります。むしろ、うまくいかないときほど「このご縁は、私に何を教えてくれているのだろう」と自省をうながしてくれます。つまり、教えるより先に自分を磨くこと、それが人を育てる最短の道だというのです。

 

・ところで、子育てでも組織の人材育成においても、どういう人を育てることを目的とするのかといえば、私は「慈悲心のある人」の一語に尽きると思います。人と調和できる人、いつでも思いやりを忘れない人と言えるでしょう。

では、そういう人をいかにして育てるのかを先の話と重ねあわせて考えてみると、「相手と縁を結ぶ自分がそのような人になる」、それが一番の近道ということになります。思いやりや調和を大事にできる人は、成果を求められる企業でも貴重な人材となりえます。

ただし、気をつけたいのは、相手の成長を願うあまり、期待の言葉をかけすぎることです。ある方は、子どもに願っていることは胸におさめて口にせず、「そうなって欲しい」と思う

ことを親自身が無言のうちに実践することが大事といいます。「人にものを教えることはできない。自ら気づく手助けができるだけだ」といったのは物理学者のガリレオ・ガリレイですが、ほめたり、激励したりしながら、その人のもてる力が最大限に発揮されるような縁になることが、「人を育てる」ということになります。

人を育てる立場の人は、そうした意味でも「自分はまだ至らない、足りない」との謙虚さが大切です。そこで私は、たとえば外出するとき、「行ってきます」ではなく「行ってまいります」と申します。「行って」「参る」~~~すべてを尊い出会いにして、学んで帰ってくる。その繰り返しが自分を磨く習慣となり、自他の胸に慈悲の心を育むことになると思うからです。

平成28年6月度実践目標

2016.6.1

目の前の出逢いを すべて先入観にとらわれず、あたたかなふれあいに徹しよう!

後半の月を迎え、更なる布教伝道に邁進したいと思います。

 

会長先生のテーマは、「和合の秘訣」です。次のようにご指導下さってます。

 

・仏典に、「教団を栄えさせる七つの原則」という教えがあります。

仏教では、同信の仲間をサンガといいます。仏教の信者やその集まりを意味するインドの言葉ですが、日本語ではこれを和合衆と訳します。和合、すなわち和らぎ睦みあう仲間のことです。和合する仲間~~この見方を少し広げると、本来は地域全体がいわばサンガであり、この七つの原則は、私たちが日常いかに和を築くかを教えていると受けとることができます。

「教え」をさまざまに読み替えれば、課程、社会、国のいずれにおいても、みんなが穏やかになり、平和に暮らすための教えといえるのではないでしょうか。

たとえば「互いに相和して敬い」や「長幼相交わるとき礼をもってし」は生活の基本といえますし、「人を先にし、自分を後にして」「来るものを厚くもてなして、病めるものは大事に看護する」は、慈悲心に基づく思いやりの実践そのものです。

・また、和合について仏典には「教団和合の六つの原則」という教えもあります。ここにも大切なことが教えられていますが、ではこの教えをわが身にあてはめて、何をどうすることが和合をもたらすのかを考えてみましょう。

・友もなく、僧房に独り病み臥す弟子を見かけ、釈尊が看護の手を差しのべられた話が残されています。釈尊は「私があなたの友になろう」と声をかけ、汚物にまみれた体を清めて、手当てし摩り、洗いたての衣に着替えさせたうえ、部屋の掃除まっでして、体と心に安楽を与えたといいます。この釈尊の行動からは、先の「六原則」にある慈悲の言葉、行ない、心のすべてが感じとれます。

またこの弟子は、友が困っていても助けないなど、それまで自己中心に生きてきたため「独り病み臥す」身の上に至ったのですが、釈尊はそうした先入観にとらわれず、あたたかくふれあったのです。その結果、弟子は「善心を生じ」、真の和合衆(サンガ)になったということです。

・こう見ると、和合のための六原則は、慈悲心から生まれる、身口意三業の活動であることがわかります。慈悲の思いが実践によって人と人の心をつなぐぬくもりを生み出し、それが和合を築くということです。和合の「和」には「あたたか」という意味もあるのです。論語によると「自分を但し、家を斉えることも政である」とあり、和合は私たち一人ひとりの心から生まれていくのです。

では、なぜ和合が大切なのか~それは、宇宙・人生の一切は大和から成り立っていることからもわかるように、自他の命を尊重する最善、最良の手立てが和合にほかならないのです。

 

立正佼成会奈良教会 教会長 馬籠孝至

634-0007 奈良県橿原市葛本町805 >>地図
電話 0744-23-6900

平成28年5月度実践目標

2016.5.1

平成二十八年五月度実践目標

手どりの「縁」が、すべてを生かす心ばえとなって

ワクワクする にぎわいの 「青年の日」に!

 

若葉の季節となりました。今月は、第47回「青年の日」が、開催されます。たくさんの青少年が、世界の平和実現のために具体的な菩薩行を実践する月にしたいと思います。

会長先生のテーマは、「持ち味を発揮する」です。次のようにご指導下さっています。

 

・大根、はんぺん、がんもどき、こんにゃく、ちくわに昆布に玉子・・・・・。

少し、季節外れかもしれませんが、持ち味という言葉を聞くと、私にはなぜか、鍋のなかでおいしく煮えるおでんが思い浮かびます。一つの鍋のなかで、具材が相互に味を引きだしあいながら、しかもそれぞれが持ち味を発揮する。そこには、私たちの社会や一人ひとりの生き方に通じるものがあるような気がします。

ところで、持ち味や個性というとき、私たちは多くの場合、個々の際立った能力や力量をさすようです。もちろん、それも加味されていいでしょう。しかしそれだけでは、とりたてて才能といえるものがない人に持ち味や個性はないということになってしまいます。何が自分の持ち味なのかわからず、自分に自信がもてないとか、自己肯定感が低いと悩む人の多くは、持ち味や個性のとらえ方に迷うあまり、思い詰めてしまっているのかもしれません。

自分のことを知りたければ、まず外に出て、人と交わったり、一緒に体を動かしたりするといいといいます。すると、自分がほんとうに好きなことや自信のもてる何かが見つかるのです。「持ち味は縁によって開く」ということです。

さて、ここで再びおでんの話に戻りましょう。おでんの具材には、いずれもそれほど強い味や香りがなく、おおむね淡泊なものです。ところが、ひとたび鍋で他の具と一緒に煮られると、はんぺんならはんぺんのふんわりとした食感が生き、大根の甘みが引き立つなど、それぞれの持ち味・個性がいかんなく発揮されます。個々の持ち味は、やはり、「縁」によって開かれる部分が多いといえそうです。

 

・能力や才能だけでなく、私たちも花のように、そこにいるだけで持ち味を発揮している~

そのような一人ひとりであることを発見するのです。そしてその気づきによって、自己評価はもちろん、他の人を見るときにも「友であるだけで嬉しい」といった豊かな見方ができるのです。それは、たとえば単に短所を長所と見るような、いわばテクニックではなく、短所も長所も含めて「あなたは大切な人」と称え、すべてを生かす温かなまなざしです。そして持ち味とは、詰まるところ心ばえが生みだすものですから、そのように見る素直な眼、心を具えていることが、私たち人間本来の持ち味だと思うのです。社会という鍋のなかで、自他の持ち味引き出す決め手はダシといえますが、それは明るさとかやさしさとか温かさだと思います。ただし、ダシの旨みをいつも利かせるためには、日々の精進が欠かせないのです。

平成28年4月度実践目標

2016.4.1

 釈尊『降誕会』の月です。私たちの“いのち”をどう生かすかに焦点絞って、布教伝道に、邁進したいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「あなたも私も、みな仏」です。
・毎年、四月八日の花まつりを迎えると、暖かな春の日が注ぐなか、私たちは花御堂に甘茶を灌いで礼拝し、釈尊の降誕をお祝い申しあげます。そうした機会に「仏さまのようになれるよう、精進いたします」と誓いを新たにする人も多いことでしょう。
ただ、そのとき心のどこかに「自分と仏さまとの隔たりは大きく、あくまでも遠い目標にすぎない」という思いはないでしょうか。善いこともするけれど、釈尊のようにいつでも智慧と慈悲をもって生きられるわけではない、と。
白隠禅師の『坐禅和讃』に、「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし」という一節があります。生仏一如、つまり衆生と仏は本質において一つであり、衆生以外に仏はないということです。そして、この「衆生本来仏なり」の一句を、臨済宗の山田無文師は「仏法の根本原理」といわれ、「この一句がほんとうにわかれば、仏法はすべてわかったといっても、過言ではない」と述べています。
私たちは「凡夫である自分と仏は違うものだ」と思いこんでいる、言葉を換えれば、凡夫と仏の二つがあって、自分は仏になれないと決めつけていますが、そうではないようです。
笑顔で人とあいさつを交わすと心が和んだり、人の苦悩を知れば胸が痛み、人の喜ぶ顔を見ると嬉しくなるのも、私たちが生仏一如、凡聖不二の身にあずかる人間だからでしょう。そして、いつもその自覚に立って歩みつづけるために日々の精進があるのです。
・仏とは、つまり自分が仏であることに気づいた人のことで、それは、自らの尊さに気づくこと、真の自分を知る、ということでもあります。
・「仏種は縁に従って起る」とあるように、サンガ(同信の仲間)において、たとえば法座などであたたかな助言を受け、自分にはないやさしさや明るさにふれたとき、自分もまた明るくあたたかな気持ちになるのも、仏性が感応するから。それはいわば、仏が仏に法を説き、お互いに、求道しているからではないでしょうか。
・真の自分を知る。生仏一如と気づく。それが、私たちの一生のテーマです。しかも、仏道は無上道といわれるように、一度わかってもさらにあくなき探究を、精進をせずにいられないのが人間の本領であります。そして、それは心を具えた生としての仏性のはたらきなのです。

平成28年3月度実践目標

2016.3.1

平成28年3月度実践目標

 創立の月を機して、サンガとともに 大いなる

一つのいのちのはたらき(縁起)を 実感し     

伝えよう!家庭成仏の姿を

 

創立の月を迎えました。創立の意義を深く認識し、精進をお誓いしたいと思います。

今月の会長先生のテーマは悪いことはしないです。

会長先生は、つぎのようにご指導くださっています。

 

・私たちは、子どものころから、たいてい悪いことをしてはいけませんと教えられています。では、なぜ悪いことをしてはいけないのでしょうか。また、そもそも悪いこととは、どのようなことをさすのでしょう。

 法句経に悪を行えばあとで悔いるという言葉があります。悪いことをしないのは、悔いのない日々を送るためだというのです「なんだ、そんな理由か」と思う人がいるかもしれませんが、悔いのない日々とは、心がいつも晴れ晴れとして楽しく、充実した毎日をすごすということです。これ以上の幸せがほかにあるでしょうか。

 ある方は、生命の発展に順うものが善で、生命の本流に逆行するものが悪だといいます。これはつまり、真理・法にそった言行が善であり、自他の命の尊厳を軽んじる言行が悪であるということになるでしょう。釈尊が自分を愛しい者と知るなら、自分を悪と結びつけてはならないというのも、命の尊さを自覚することが悪をなさない根幹となるからです。

そのように見ると、仏教で説く十悪は、いずれも自他の命の尊厳を損なう行為といえます。悔いなく生きるには悪いことをしない~これは、まさに人生の鉄則といえましょう。

 一方で、慈雲尊者は十善これ菩薩の道場なりといっています。この十悪を犯さないところに私たちの学道仏道を学び修行するがあり、それが人となる道だというのです。

 

・悪いことをしないというと、仏教の思想を要約したとされる七仏通戒偈が思い起こされます。その最初にある諸悪莫作」は、多くの場合「諸悪をなすことなかれ」と命令形で読まれます。ところが道元禅師は、仏道を歩み、自他の命の尊さを自覚して生きると、おのずから悪いことはしないとの意味で、「悪をなすことがない」と読むのです。つまり「諸悪

莫作」の一句は、「悪いことをしてはならない」との戒めというより、「自他の命の尊厳に気づけば、善いことをする」という、私たちの本性を示す一句といえるのです。

仏さまの教えに結縁し、人として大事なことに気づけたからこそ、悪をなさないですむ~~

その安らぎを思わずにはいられません。

 最後にもう一つ、釈尊の言葉を紹介しましょう。

ある行為をして後悔せず、うれしく喜べたなら、その行ないは善い

~~日々を明るく、楽しくすごしてまいりましょう。

平成28年2月度実践目標

2016.2.1

目の前の出来事(そこから・日常)を
   全て価値あること、有難いこと と
     感謝で受けとめる 温習に!

仏教三大行事である『涅槃会』の月を迎えました。
今月の会長法話のテーマは「私心を去る」です。
会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・私たちの三つの実践の一つとして、
人から呼ばれたらはっきりと
「はい」の返事をするというのがあります。

一見、簡単なことのようですが、
「面倒だな」「あの人は苦手だ」といった私心があると、
素直に返事ができないこともあるのです。

逆に、呼ばれてすぐに「はい」と答えられるのは、
私心がないときといえます。

私心が無理押しを生み、無理押しがとらわれとなり、
とらわれが我を張る原因になって進退きわまる、
とありますから「はい」と素直に返事がげできることは、
日々を愉しく生きる秘訣の一つといえましょう。

ところで、私たちの体は寒ければ熱を逃げるのを防ぎ、
暑ければ汗をかいて体温を調節するなど、
環境や条件におのずと順応します。

心もまた、日々の出会いやできごとを選り好みせず、
素直に受け入れて順応できればいいのですが、
私心が邪魔をするときはそうはいきません。

・好いことだけでなく、つらく悲しいことでも、
それを神仏の「おはからい」として
感謝で受けとめることを本会では大切にしてきました。

この言葉をとおして、どのようなことも必然であり、
むだなことは一つもないと知るとき、
私たちは善し悪しを離れ、
現実を素直に受け入れられるのです。

「おはからい」と受けとるのは
私心を去るスイッチを入れるようなもので、
それによって法に順う無理のない、
楽な人生が歩めるのです。

・実業家の稲盛和夫さんは、
大きな事業に挑戦する際、
「動機善なりや、私心なかりしか」
と繰り返し自らに問われたそうです。

その事業はほんとうに世のため人のためになるのか、
自分を大きく見せたいといった私心はないか・・・・。
それらが確認できて初めて実行する意志が固まり、
事業をはじめる勇気がわいてきたと記されています。

この話からすると「私心を去る」とは
法と一体になって生きることであると同時に、
仕事や地域活動など実社会で「公のために働く」という、
菩薩行の精神に通じるものがあることがわかります。

・まもなく迎える涅槃会の涅槃とは
「煩悩が吹き消された状態」を意味しますが、
それはけっして私たちと
かけ離れた世界のことではないと思います。
無私の心で、呼ばれたら「はい」と返事をし、
ものごとを「おはからい」と素直に受けとめ、
人の心に寄り添い、
話をよく聞いて相手を思いやるような、
穏やかで安らぎに満ちた日常にこそあるのです。

平成28年1月度実践目標

2016.1.1

それぞれの「まず人さま」を願い
自・他の仏性礼拝行を実践し、
行法の核心を摑もう!

今月の会長法話のテーマは
「まず 人さま」の心で です。
心あらたにして、お互いさまに
「自灯明・法灯明」の教えを学び、
実践してまいりたいと思います。
会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・みなさま、新年明けましておめでとうございます。
今年もまた、出会う人、出会うことの
一つ一つに学ばせていただきながら、
お互いさま、調和と思いやりの
一年をすごしてまいりたいと思います。

そのための一つが、
「まず人さま」という心です。
自分のことはさておいて、
「人さまが幸せになるように」と思いやる。
そこに自他の調和があり、
幸せがあると教えるものです。

ただ、自分のことを中心に
考えたがる私たちですから、
「このご時世に、そんなお人好しでは損をするだけ」
と思う人がいるかもしれません。

しかし開祖さまは、
「『人間というのは自分にしがみついているもので、
自分を忘れることなどできるものではない』
という人が多いようですが、
これは、やりようによっては簡単にできる。

わたしはいつも『まず人さま』
ということで、人さまの喜ぶことだけを
考えればいいと言うのです。

『あの人の悩みを聞かせてもらいたい』
『あの人の手伝いをさせてもらいたい』
ということを一つずつでもやっていけば、
構わないでおいても、
自分が幸せになるんですから」
と、明言しています。

なぜなら、「まず人さま」と
人さまが喜ぶことを願う心は、
仏の慈悲に通じるからです。

・では、みなさんは、
「まず人さま」と聞いて、
具体的に何を思い浮かべるでしょうか。

ある人は「人さまのため、
損得勘定を抜きに力を尽くすこと」
ある人は「我欲を抑えて人に
譲る心を起こすきっかけとなる言葉」
また別の人は「自分が、自分がと、
つい『我』が出てしまう私にとっての
『まず人さま』は、人に
花をもたせること」といっています。

人の持ち味を生かすようなはたらきも、
自他の喜びと幸せにつながる
「まず人さま」の一つと言えましょう。

・こうしてみると、人それぞれに、
さまざまな「まず人さま」の姿勢があります。

開祖さまはこうも説かれています。
生かされていることへの感謝がないと、
利他の行いもできない、と。

仏さまに生かされているという
大いなる慈悲に気づくことなしには、
ほんとうの意味で「まず人さま」の
心にはなれないというお諭しです。

これらをふまえつつ、この年の始めに、
自分にとっての「まず人さま」とは何かを
問うてみてはいかがでしょうか。

平成27年12月度実践目標

2015.12.1

仏のはたらき(久遠実成・真理)を信受し
布施・持戒の布教精進で、
“第二の矢を受けない”を確信する。
.
. 
今月の会長法話のテーマは
「第二の矢を受けない」です。
さて、早いもので、十二月を迎えました。
今月は、平成二十八年度の心を
つくらせて頂く大切な月と、
受けとめさせて頂きます。
会長先生は、次のようにご指導くださっています。
.
・慈悲に裏打ちされた自然な行為も、見方によっては
  戒律をないがしろにするものと映るのでしょう。
  毎日いろいろなできごとに遇い、
  喜怒哀楽さまざまな感情を抱きます。
  人間としてそれは当たり前のことで、
  そうした感情の一つ一つを釈尊は
 「第一の矢」といいます。
 ただ、私たちは心に抱いた感情のうち、
  自分の好ましいものは「もっと」「ずっと」
  と望み、執着します。
  逆に、、いやなものはさけて嫌い、
  そのときどきに起こる欲や自己中心の見方に
  よって自ら苦を生み、悩みを深めます。
 では、どうすれば苦楽の海に溺れることが
  ないのか~~その答えは、
  最初に抱いた感情にとらわれないこと、
  つまり「第二の矢」を受けないことだ、
  と釈尊はいうのです。
.
・個人的な話で恐縮ですが、以前、
  私は膀胱炎を患ったことがあります。
  その痛みは「もう二度とご免こうむる」
  と思わせるもので、少しでも気になると
  すぐに水分をとって炎症が起こらないように
  気をつけています。
 つまり、痛苦に懲りて注意深くなったわけですが、
  苦悩にも同じことがいえそうです。
  自分の感情にとらわれ、ふりまわされる苦しみを
  一度味わうと、そのような「第二の矢」は
  受けないようにしようと
  決意するのではないでしょうか。
/
・毎年の健康診断で、同じ項目を何度
  注意されても改善に務めなかった人が、
  たいへん痛い思いをして初めて健康の
  大切さを思い知るという話もあります。
  そうした点から見ても、懲りるというのは
 「第二の矢」を受けないための、
  いわば仏さまからのお諭しであり、
  こころの成長につながるステップと
  いえるかもしれません。
 しかし、できれば精神的にも肉体的にも
  痛い思いはしたくないものです。
  だからこそ、欲望や執着にふりまわされる
  という第二、第三の矢を受けないことが
  肝心なのです。
/
・禅の世界に「二念を継がない」
  という言葉があります。
  煩悩がわいても、それを追いかけて
  あれこれ思いをめぐらさない、
  心に浮かんだ思いを妄想でふくらませない
  ということですが、たとえば、
  おいしそうな食べものを見て、
 「食べたいな」と思っても、
  そこで止まるなら、けっして懐は痛まず、
  体に影響しないので苦は生じません。
/
・煩悩といい、苦悩といい、
  それらは自ら生みだしているものです。
  ですから、心をうまくコントロールできれば、
  よけいなことで思い煩わなくてすむのです。