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まほろば 奈良教会長コラム

平成25年5月度実践目標

2013.5.23

「仏さまの真似をして、人を諭(さと)しながら自分が悟り、仏さまに近づいていこう」

今月の会長法話のテーマは、「怒ること、叱ること、諭(さと)すこと」です。

人と触れ合う中で気づいたことを怒ったり叱ったりして伝えたときに、反発され、悲

しく、くやしい思いをすることがあります。こちらの思いを相手にうまく伝えるには、どのような縁になればいいのでしょうか?

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・人間関係の大前提として人を尊重することがなければ、どんな教育も指導も躾(しつけ)も、相手の心には届かないでしょう。

辞書によると「怒る」とは、「激して気が苛(いら)立つこと」で、「叱る」とは、「声を荒立てて欠点を咎め、責めること」とあります。怒るのは論外にしても、人を叱って気持ちのいい人はいませんから、相手と心を通わせるには、やさしく諭すというあり方がふさわしいように思います。

 ・たとえ、愛情による叱責であっても、受ける側の気性によっては誤解を生ずることもあるでしょう。また、叱り諭す側の姿勢いかんで、威圧感が強く伝わる場合もあります。

 釈尊の十大弟子のお一人、舎利弗尊者は「叱るのにふさわしい時を選ぶ」「やさしく穏やかな言葉で話す」「慈しみの心で話す。瞋(いか)りの心では話すまい」などの戒めを修行者たちに伝えています。

 私たちはつい言わなくてもいいことを言ったり、感情的に怒ったりしがちですが、そういうときこそ、相手を尊重する気持ちと自己を省(かえり)みることを忘れずに、と舎利弗尊者は教えています。それは、そもそも「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)だからであり、「みんな仏の子」であるからです。

 ・それでも、とっさにはそのように冷静な対応はできないということであれば、感情が高ぶっていると感じたとき、仏を念じてみてはどうでしょうか。

「諭す」とは神仏が啓示、警告をして気づかせるという「悟り」に通じる意味と、言い聞かせて納得させる、教え導くという意味がありますから、人を叱ったり諭したりすることは、じつは自分自身が大切なことを学び、気づき、悟らせていただく機会といえるのです。人を思いやるやさしさがあったか、心から相手の成長や幸せを願ってふれあっていたか…。叱責(しっせき)も諭すということもそうした内省とともにあり、だからこそ叱られた人の胸には、「あのとき叱られてありがたかった」という思いがわき起こるのでしょう。

 叱られたことが感謝に変わる…いずれの場合であれ、そう願わずにはいられません。

 今月は、人を諭すという、仏さまの真似をして、自分も人も仏さまに近づく練習をさせていただきましょう。

4月度実践目標

2013.4.1

『変化をあるがままに受け入れ、そのなかに「ありがたいこと」を見出していこう』

 今月の会長法話のテーマは、『「驚き」から創造が』です。

四月八日は釈尊がお生まれになった日です。私たち会員は仏教徒であり、幸せになりたい、生きがいある人生を送りたいと願い、それを得るために釈尊の教えを学び、実践しようとしています。釈尊の教えの中で何が一番大事か、釈尊が私たちにこれだけは知ってほしいと願われた教えは一体何だったのでしょうか。

会長先生は、「無常」(すべてのものごとは、絶えず変化していて、ひとときもとどまることがない、ということ)であるとおっしゃり、今月のご法話の中で次のように教えてくださっています。

 ・普段私たちは変化に乏しい日々を送る傾向があります。生活がマンネリ化して日々の変化に気がつかず、見ているようで見ていない「こと」や「もの」が、意外に多い気がします。その惰性に流れがちな生活のなかで、それを打ち破るのに、「不思議に気づく」ことや「驚く」ことがとても大切だと思うのです。

・新たな人や環境にふれるという変化に苦手意識を持つとき、好き嫌いという自分の感情や狭い価値観に捉われていることが多く、それゆえかたくなになりがちです。

人が変化に順応するのは、新たな出会いによる刺激や環境の変化の影響を受けて自分を変えることです。それは、より創造的に生きるということであり、人間的な成長をうながすとともに、人生において大事なことを発見するチャンスでもあります。

・日常の小さな変化を見つけたり、出会いを成長や喜びに変えるには何が大切なのでしょうか。そのコツの一つは、素直になることです。

「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」という歌があります。このように目の前のことをあるがまま受け入れる素直さが、一つの出会いを宝物に変えるコツなのではないでしょうか。

あるいは、自分は何もしないのに、毎日、洗濯してくれる人がいて気持ちよくすごせることについて、「ありがたいなあ」と感嘆の声をあげてみる。そうした素直な感謝から生まれる小さな気づきの延長に、「いま生命(いのち)あるは有り難し」という人生の大事な気づきがあるのでしょう。

・釈尊が別世界から降りてこられたといわれるように、私たちも真如の世界からやってきたのです。だからこそ、水の流れのように、真理を学びつづけることが大切なのです。

今月は、自分にとって不都合な変化・縁もあるがままに受け入れ、そのなかに「○」(マル)を見出し、「ありがたい」と感謝していく世界を味わっていきましょう。

3月度実践目標

2013.3.11

『出会う人も現象も仏心を引きだしてくださる観音さまと受けとれる自分になろう』

 今月の会長法話のテーマは、「心に寄り添い、ともに歩む」です。

三月五日は七十五回目の立正佼成会創立記念日です。草創のころ、開祖さまが真剣に願われた「人を救い、世を立て直す」とは、一体どのようなことなのか、学ばせていただきたいと思います。

 会長先生は、今月の御法話の中で次のように教えてくださっています。

・法華経に登場する観世音菩薩は、現実の社会で苦しむ者の声を聴きとり、さまざまな姿、形に身を変えて、救ってくださるといわれます。

  ただ、一昨年の東日本大震災のようなことが発生したとき、私たちはなすすべもなく立ち竦(すく)んでしまいます。「実際に自分自身が味わったことのない困難をどう受けとめればいいのか」、「苦しむ人の心に寄り添い、ともに歩むとはどういうことか」を考えさせられました。あの日以来、多くの人が「自分に何ができるのか」と、慈悲の実践ということについて思いをめぐらしてきたのではないでしょうか。

苦しんでいる人たちのことを忘れることなく思いやり、苦悩が少しでも和(やわ)らぐようにと心から願うことが、それらの人に寄り添うこと、慈悲の実践をすることといえそうです。

 ・見方を変えると、そうした行ないは「生かされていることへの恩返し」ともいえるのです。生きとし生けるものはみな、あらゆるものからの恩恵を受けて生かされています。人さまを思いやり、自分の持てるものを与えることは、大いなる恩恵に対するささやかなご恩返しといえるのではないでしょうか。人さまに何かしてあげようと思うと、私たちはつい気負うことがあります。ご恩返しであれば、ただ、させていただくだけでいいのです。

私たちにできることは小さなことかもしれません。「人を救い、世を建て直す」という本会の創立精神に照らしても、会員綱領に「家庭・社会・国家…」とあるように、私たちの日々の思いやりが、社会にぬくもりの輪を広げる起点となっていきます。

 ・そして、そのような心が働くのは、慈悲の心を起こさしめてくださる観音さまがいらっしゃるからです。その観音さまに慈悲と智慧を学ばせていただくことが、「ともに歩む」ということだと思います。

  さまざまな姿や形をみせて、仏心を引き出してくださり、大切なことを教えて下さる有り難い観音さま。それは、実は、家族や友人、出会う人や現象なんだと教えてくださいます。今月は、この救われの世界・ものの見方を、自分も人も、ともに味わい、身につけられるよう、しっかり精進させていただきましょう。

12月度 実践目標

2012.12.1

『ものの見方をニュートラルにして「おかげさま」という感謝の種をみつけよう』

今月の会長法話のテーマは、『「おかげさま」を数えてみよう』です。

 一年を振り返って、何かにつけて不平不満や恨み言を口にしたり、自分に不都合な変化が起こると、それを受入れられず、苦に感じることが多くなかったでしょうか。 

会長先生は、その苦が喜びや生きがいにつながり、悲しみが心の成長をうながし、怨みにさえ「ありがとう」をいえるような大転換ができる智慧を次のように教えてくださっています。

・私たちは、数えきれないほどのご恩とその一つ一つの縁によって生かされていると同時に、一人ひとりが他を生かすご縁の一つでもあるといえそうです。ところが、ふだん、そのことを忘れて、何かにつけて不平不満や恨み言を口にしがちです。また、無常の法に照らせば当たり前のことであるのに、自分に不都合な変化は受け入れられず、多くはそれを苦と受けとめます。

・仏教で「色即是空」(しきそくぜくう)と説くように、現象そのものはプラスでもマイナスでもない、ゼロであり、「空」です。つらい、悲しい、苦しいと思う心を一度ゼロにし、まっさらにして、目の前に起きた現象をありのままに見直すと、おおらかな受けとめ方ができます。

・その根本は縁起や無常、空などの真理の認識にある。真理を学ぶことにより幸せを受けとめる感度が高まるといえるかもしれません。

・当たり前の日常に感謝し、そこに幸せを感じる習慣を身につけると、自(おの)ずと愚痴や不満が減っていきます。

・仏さまの教えを学ばせていただくなかで、愚痴の多かった己を省み、「見方を変えれば、ありがたいことはいくらでも見つかるのだ」と気づけたことが何によりも「ありがたい」と思うのです。

・「ありがとう」をいい、感謝の気持ちを行動にあらわすことで人に喜ばれ、それが感謝されることにつながる。自他の心をぬくもりで満たすこのような交感は、私たちに喜びと生きがいをもたらします。とりわけ、仏さまの教えをお伝えする利他の実践は、明るい人生を創造する大きな力となるでしょう。

なぜなら、仏さまの教えは、どれほど暗く沈んだ人の心にも、明るい「感謝」という一条の光を与えるものだからです。

今月は固定的になりがちな(バツの)ものの見方、受けとり方をニュートラル(真白)にして、「おかげさま」という種(マル)をたくさん見つけ、新たな年を迎えましょう。

平成24年次 11月度実践目標

2012.10.31

「相手の過失を語るのではなく、善いところを発見していく徳を養い、発揮しよう」

今月の会長法話のテーマは、「徳を養い、発揮する」です。

仏さま、開祖さまをたくさんの人がお慕い申し上げますが、どうしたら、仏さま、開祖さまに近づけるのでしょうか? 会長先生は次のように教えてくださいます。

・開祖さまが列車内でトイレ清掃をされたように、人に知れないように行う善行・陰徳(いんとく)を積むことを大切にするよう教えられてきました。

・仏教は智慧と慈悲の教えといわれます。真理を悟ることは、智慧に当たり、それを他人に伝えることが慈悲に当たるでしょう。この智慧と慈悲が一体となるところは仏の世界であります。徳を積み、徳を身につけるとは、仏の世界へ向けての菩薩行にほかなりません。

  仏教は自覚の教えともいわれ、真理を明らかにし悟りを開く、すなわち智慧の宗教であることが仏教の特徴であります。たとえば、縁起の法を学び、あらゆるものに生かされていることに気づいたとき、見るものふれるものに感謝せずにはいられません。 そうしてその喜び、感謝を他人に伝えたいという心がわいてきます。

・徳を積む、という語感から徳を貯(た)めたりふやしたりするもののようにとらえがちですが、善いことを繰り返し繰り返し行なうその一瞬一瞬の実践が心を豊かにし、喜びと楽しみを味わうことができるのです。

・明恵上人(みょうえしょうにん)に、「他人の過失について語る人は、わが身に徳のない者である」という言葉があります。「相手の過失を語るばかりでその徳分が見えないのは、自分に徳がないためである」という指摘です。

  相手の善いところを見よう、徳分を発見していこうという見方ができるとき、人は大きく成長しているときです。相手の徳(善いところ)が見えないときは、智慧の眼が曇り、謙虚さを失っている状態といえます。智慧の眼が曇っていると気づいたら、「まず人さま」という利他の心を思い起こし、相手の善いところに目を向けて、智慧と慈悲の心を取り戻したいものです。

・道元禅師が作務(さむ)の心得として示された次の三つの心は、私たちの生活の指

針になることでしょう。人さまの幸せを喜び、何事も感謝で行う「喜心」、思いやりをもってことにあたる「老心」、すべてを大らかに観る「大心」の三つですが、開祖さまのお徳を端的に示しているように感じられます。

 今月は、相手の過失(バツ)を語るのではなく、開祖さまのように善いところ(マル)を発見していく徳を養い、発揮する、礼拝行に取り組みましょう。

10月度実践目標

2012.10.2

「あなたはすばらしい、あなたは救われている」と合掌礼拝の心と姿勢でふれあおう

  今月の会長法話のテーマは、「みんなすばらしい」です。

 思いどおりにならないことが続いたり、人と比べてさびしさを感じ、自分に自信がもてず、どうせ自分なんか、と自己否定に陥り苦しんだことはありませんか?

 そんなとき、どのようにして、乗り越えていますか?

 会長先生は次のように教えてくださっています。

 

 ・『「すばらしい力」が生きてるものぜんぶにあたえられている。きみも、きみも、き   みも、…、なにかはわからんが、みんな「すばらしい力」をひとりひとりが持ってる』という椋鳩十(むく はとじゅう)さんのお話は仏さまの教えの本質に通じるものが示されているように思います。

  みなすばらしい力をもった存在であるというのがありのままの姿といえましょう。

  この世界は三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)という真理のはたらきのただなかにあります。それは、すべてが大いなる一つのいのち・根源のいのちを生きているとも表現できます。つまり、みな等しく仏性そのものといえるのです。

 「ひとりひとりが持っている」というその力、輝きに私たちが気づくこと、自覚することが大切です。

  ・自分の力や輝きに気づけない人が数多くいる。その現実のなかで、だれもが自分を尊ぶことができ、周りの人にも同じまなざしを向けられるようになるポイントの一つが、あらゆるものを賛嘆する法華経の教え、とりわけ常不軽菩薩の教える合掌礼拝に徹する精神と姿勢です。

  ・常不軽菩薩に倣(なら)い、だれに対しても「あなたはすばらしい」と合掌礼拝の心と姿勢でふれあうことが、現今は本当に大きな意味をもつ時代です。

  それはいわば仏さまの本願そのものであり、そのご縁を一つのきっかけとしていのちの尊厳、自他の尊さに気づいた人が自己肯定感を取り戻せるように願わずにはいられません。

  それには、私たち一人ひとりも真理を認識し、仏の慈悲と智慧をいただくことが大切です。そして「みんなすばらしい」とは、「みんな救われている」ということにほかならないのです。

 今月は、一見不都合な人と思う目の前の人にも、だれに対しても、不平不満をいうのではなく、その人のなかに、すばらしいところ・救われているところを見出しほめる・「合掌礼拝の心と姿勢」でふれあう自分づくりをさせていただきましょう。

 

9月度 実践目標

2012.9.3

「息を調え、生かされていることへの感謝の自覚を持とう」

  今月の会長法話のテーマは、「息を調(ととの)える」です。

 思いどおりにならないと心が波立ち、さらに思いどおりにしようと怒って興奮し相手を責め、イヤな関係になってしまうことはないでしょうか。

 そうならないにためには、どのようにすればいいのでしょうか?

 会長先生は、今月の会長法話で次のように教えてくださっています。

 ・釈尊の教えの一つに、息を吸ったり吐いたりするたびに、「私はいま長く息を吐いている」「長く息を吸っている」というように念じ、呼吸に意識を向けると、貪欲やよけいな思い煩いにふり回されない安定した心が得られる、と教える経典があります。

  ・仏教は自覚の教えといわれます。一人ひとりが真理のはたらきに気づき、自らをコントロールすることが大事ですが、呼吸に意識を向けるのは、人間の生きる原点である息をとおして身心をコントロールする身近な方法です。

 ・荘子は「深い呼吸が穏やかで高い徳を具えた人をつくる」という意味の言葉を残しています。

 その意味では、深い呼吸が心を調えるうえで大切ですが、ふだん、ことさら息に意識を向けたり、習慣的に深い呼吸をしたりすることはあまりありません。しかし、ほんとうは日常生活のなかで、ゆったりと息をすることが大切なのです。

 そこで、たとえば朝と晩、読経供養が終わったあとの三分から五分をそうした時間にあててみてはどうでしょうか。

 仏前で正座のまま、握りこぶし二つぶんくらい膝小僧のあいだを開け、体を左右に揺らして姿勢を調えます。そうして口から息をゆっくりと吐き出し、吐ききったら自然に入ってくる吸気を鼻からとりこむのです。

 そのとき、「喜びを感じながら息をしよう」「心を鎮(しず)めて息をしよう」「無常を観じながら息をしよう」と、念を凝らしながら呼吸をすると、身も心も落ち着いてきます。

 同時に、呼吸や心臓が一瞬も休まずにはたらいてくれている「いのち」の不思議に気づくと、「生かされている」ことへの感謝の自覚が生まれます。

 その自覚が、欲や慢心からわが身を守り、自己コントロールという「大果・大功徳」をもたらすのです。

  今月は、朝晩の読経供養のあと、身心を調える深い呼吸をする習慣を身につけ、「生かされている」という感謝の自覚をしっかり持ち、「仏さまに護られている」「何ごともすべて仏さまのなさること、悪いことが起こるはずがない」と信じて任せ切る自分づくりに取り組みましょう。

8月度 実践目標

2012.8.1

「大らかに 人と和らぎ親しめる人間をめざして 精進させて頂きましょう」

 今月の会長法話のテーマは「足し算・掛け算の人間関係」です。

 明るく優しく温かい太陽のような人、大らかでどんな人とも和(やわ)らぎ親(した)しめる人、そんな人になれたら、どんなに人生が豊かで楽しくなるでしょうね。

 すべてのものごとは縁によって起こる、と教えていただきますが、どのような縁によって、そんな人になれるんでしょうか?

 会長先生は、次のように教えてくださっています。

 ・自分と気の合う人や、自分に都合のいい人とつき合うことは、必ずしも自分を豊かにするとはいえないようです。

  ・いろいろな縁のあり方を見ると、自分とは異なる者と縁を結ぶことが、より発展性や創造性に富むことになり、そこに人生の妙味があるといえます。

・自分の足を引っ張るような相手も排除することなく受入れていくことによって、人生の可能性が大きくなるということです。

  自分とは異なる人を受け入れ、お互いに持ち味を発揮しあうために大切なことがいくつかありそうです。

  一つめは、自己を確立すること。その基本となるのは自分を尊べる人になること。

  二つめは、誠実に、正直に、ことに当たる姿勢を貫(つらぬ)くこと。

  三つ目は、相手との違いを認めること。相違を向上の糧(かて)に転換すること。

 ・こうした姿勢の根底となるのは、「天地同根・万物一体」という大らかな心です。

  この一点をしっかり肝に据えて触れ合うことができればよいのだと思います。

 

 ・マイナスにしか思えない人間関係であっても、「一天四海・皆帰妙法」(いってんし       かい かいきみょうほう)と大らかにご縁をかみしめると、その人との出会いが人生を豊かに彩(いろど)る宝ものに変わることでしょう。

 人と人との関係でも、結び合う縁によって、双方にプラスとなる足し算の関係、相乗効果を生む掛け算の関係、引き算のようなマイナスの関係が生まれるように思いますが、結局は、縁そのものでプラス・マイナスが決まるのではなく、縁をプラスにするのもマイナスにするのも、受けとる人間の「受けとり方しだい」だと教えてくださっているように思うのです。

 それが、目の前の人を「×」(バツ)にして不都合な人と見るのではなく、その出会いの中にこそ、「○」(マル)・有り難いこと・喜びを見出し、口に出していく修行です。

 今月は、大らかに人と和らぎ親しめる人間をめざして精進させて頂きましょう。

心を開く笑顔

2012.5.8

平成24年次 5月度実践目標

「笑顔を忘れず、明るく楽しく 精進させていただきましょう」

 今月の会長法話のテーマは「心を開く笑顔」です。

 いくら熱心に語りかけても、その言葉が相手に届かず、心が通(かよ)いあう実感がなく、さびしい思いをすることがありませんか?  一体どうしてなのでしょうか? そんな時どんなふうにしていますか?

  会長先生は次のように、ご指導くださっています。

それはお椀(わん)が伏せられた状態なのです。伏せたお椀には何も入りませんから、まずは相手の心のお椀を上向きにしなければはじまりません。それには、笑いやユーモアが大きな役割を果たすことが多いようです。

  笑いやユーモアは、かたくなな人の心を開いて人間関係に調和をもたらすとともに、受け入れ難い現実を受けとめて乗り越えていく、柔軟性やしなやかさを心に与えるといえそうです。

  艱難辛苦(かんなんしんく)のなかではユーモアの精神や笑いがときに一点の明かり窓となります。そのことによって心がやわらぎ、ゆとりが芽生え、救いが生まれるのです。

  私たちもにこやかな顔で日々を送りたいものです。最初は、心がともなわなくても、意識して笑顔を浮かべていると、やがてそれが自然な笑顔に変わっていく。身心相即の理(ことわり)で、心も明るく前向きになるからです。

  笑顔は「あなたと仲よくしたい」というメッセージでもあり、人とのあいだになごやかであたたかな関係が生まれていくといえましょう。

  笑顔はだれでもできる布施であり、慈悲の実践であって、思いやりそのものです。

  笑顔は、心のゆとりやしなやかさ、やさしさや思いやりの源(みなもと)です。この笑顔を忘れず、明るく楽しく精進してまいりましょう』

  会長先生は、一見不都合に思う目の前の人や目の前の出来事に不平不満をいうのではなく、その中にこそ、ありがたいこと・喜びを見つけ出し、笑顔で、口に出していく。この受け止め方を自分も人も身につけると、本当に救われていくと、教えてくださっているように思うのです。

今月、季節は、まさに山笑う春。笑顔を忘れず、明るく楽しく精進させていただきましょう。

4月度 実践目標

2012.4.7

平成二十四年次 四月度実践目標

「釈尊のように、真理をお伝えし、安らぎを与えさせていただこう」

今月の「会長法話」のテーマは「生きている意味」です。

死、病気、老い、悲しいこと、つらいことに出遭わない人はいないのではないでしょうか。それでも人生を生きている意味って、どこにあるのでしょうか?

会長先生は次のようにご指導くださっています。

『釈尊の説かれた法を学ぶと永遠のいのちを生きることができます。真理と一体の身になってしまえば死は問題でなくなるのです。永遠のいのちとは何か、真理の世界と一体となるとはどういうはたらきをいうのかを、生身の体をとおして、一生学びつづけるところに、私たちが生きている意味があるといえます。人間の世界に宗教が存在する意味は、まさにそこにあるのではないでしょうか。

釈尊はこのように説かれ、それを伝え続けられました。

「人生は思いどおりにならないものなのです。

思いどおりにしたいと思うその心が、苦しみや悩みのおおもとなのです。

 真理を悟れば、苦を離れて自由に生きられますよ。」

 そのお言葉が本質的な救いとなり、多くの人が真の安心(あんじん)を得てきました。つまり、すべての人に安らぎを与えることが、釈尊にとっての「生きている意味」であったといえます。

 釈尊がそうであったように、私たちがご法の習学をとおしてなすべきことはただ一つ、多くの人に真理をお伝えし、安らぎを得ていただくことに尽きます。

 どれほど大きな苦難を前にしても、真理をしっかりと自覚するならば、人は必ず前に進むことができます。

 苦を見つめ、そこにはたらく真理を悟っていく。それはいつまでも人に頼って生きていくわけにはいきませんから、各自一人ひとりで真理を会得することが大切なのです。

 真理を悟るとは真実の道理を明らかに知ることであり、それによって私たちはいのちの不思議に気づかされます。生身の体は有限でありながら、いま、現に、生かされていることの意味が翻然(ほんぜん)と胸に迫ってくるからです。 』

これは、一見不都合に思う目の前の人や出来事に出遭ったとき、それを「×」(バツ)にして不平不満をいって、思いどおりにしようと努力するのではなく、そのなかに、「○」(マル)・有り難いこと・感謝を見出す努力をし、人に安らぎを与える人生を生きていく。仏さまはそんな人間を育てようとしてくださっているのだと教えてくださっているように思うのです。今月は、仏さまに生かされて生きている意味を味わい、目の前の人に安らぎを与える自分にならせて頂きましょう。