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まほろば 奈良教会長コラム

平成29年8月度実践目標

2017.8.1

 いのちが遣わした 本仏のはたらきを 法座で実感しよう!

 

夏休みも後半に入りました。六日の戦争犠牲者・平和祈願式典を通し、世界の戦争犠牲者に対し、慰霊供養を行なうと同時に、平和を築く行動をお誓いしたいと思います。今月の会長先生のテーマは、「見えないはたらきに気づく」です。次のようにご指導下さっています。

 

「空気・心・ご縁」。この三つに共通することがらが何か、みなさんはおわかりになるでしょうか。一見、なんのつながりもなさそうですが、これらには次のような共通点があります。

「実際に触れることも見ることもできないものでありながら、私たちが生きるうえで欠かせない大切なもの」これが答えです。ふだんはあまり気に留めることがないにもかかわらず、その存在の大切さに気づけば、感謝せずにはいられなくなるものともいえるでしょう。心や

ご縁を具体的に考えてみても、たとえば親の恩やご先祖の徳、家族の思いやりや友人の気遣いなども、つい感謝を忘れてしまいがちな「目には見えない大切なもの」といえます。

スイスの画家パウル・クレーは、「芸術は目に見えないものを見えるようにする」といっていますが、宗教や信仰もまた「目に見えないものを見えるようにする」ものです。正確にいえば、目には見えない心のありようや「いのち」の不思議・有り難さ、そして生命の尊さなど、人として生きるうえでほんとうに大事なことに気づかせてくれるきっかけを、宗教や信仰は与えてくれるのです。

 

法華経の如来寿量品に「常に此に住して法を説く」という一節があります。仏さまはいつも、私たちのすぐそばで法を説きつづけてくださっているということです。ところが、そのあとすぐに「我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」とつづきます。すなわち、私たちにはそれが見えない、聞こえない、わからないというのです。なぜかというと、「顛倒の衆生だから」と経文にあります。ものごとを誤って受けとったり、自分本位のかたよった見方をしたりするからだというのです。

それでは、私たちはどうすれば仏さまからのメッセージに気づけるのでしょうか。いちばん簡単な方法は、素直になることです。素直になれば、目に見えない大切なものも、仏さまの説法も手にとるように感じられ、まざまざと見えてくるはずです。客観的に見れば苦境にあることに変わりはなくても、目に見えない大切なことに気づいたとき、多くの人が胸のつかえのとれたような安心感に満たされるのです。それは、救いだと思います。目に見えないもののはたらきや仏さまの声に気づくというのは、いうなれば幸せになる早道です。

お盆や夏休みでおおぜいの人が集まることの多いこの季節は、みんなで「目にみえない大切なもの」に思いを馳せるいい機会といえるかもしれません。

 

 

平成29年7月度実践目標

2017.7.1

相手の幸せを願う「手どり」こそ 最高の菩薩行と自覚して!

 

 盂蘭盆会の月を迎え、今月の会長先生のテーマは、相手を認め、讃える」です。

次のようにご指導下さっています。

 

 人のすぐれているところをほめることを、一般に讃えるといいます。

では、その「すぐれているところ」とは、何を基準にしてそういえるものなのでしょうか。

ふつう私たちは、成績がいいとか、仕事が早いとか、性格がいいとか、運動に長けているといった長所を指して「すぐれている」といい、その人を認め、讃えます。

 ところが釈尊は、自分の生命を奪おうとした提婆達多を「善知識」と讃え、殺人鬼と恐れられたアングリマーラの再生を信じ認めて、弟子の一人に加えたといわれます。世間の常識とは異なる見方かもしれませんが、ここには、人を認め、讃えるときの大切な着眼点が示されています。一般でいう「賛嘆」は「深く感心してほめること」を意味します。いっぽう仏教でいう「讃歎は、仏・菩薩の徳をほめ讃えることと教えています。そのことに照らせば、釈尊がどれほど罪深い人に対しても讃えることを忘れなかったのは、相手に仏・菩薩の徳の輝きを見ていたからにほかなりません。

 人を評価し判断するうえで、その人の行動や言葉や性格は無視できないものです。しかし、そのことにとらわれると、もともと讃えるに値する仏性という大切な視点を忘れてしまいがちなのです。仏法を学ぶ私たちにとって、人を認め、讃えるとは、相手のいのちを讃歎することではないでしょうか。

ただ実際は、なかなかそこまでは気づけません。それでも、たとえば親が子を見るとき、上司が部下を評価するとき、あるいは友だちとふれあうときに、相手のすぐれたところ見る心がけとともに、私たちはお互いさま、本来、仏・菩薩の徳を本具するいのちであるということを忘れてはならないと思います。

相手をほめるというのは、自分の心を開くことです。人を認めて讃えることも、じつは人のためではなく、自分を磨く実践の一つといえるかもしれません。

昭和四十年のことだったでしょうか。私が当時、さまざまな葛藤を抱えたまま、初めて断食に臨んだときのことです。断食道場で八日間の断食と漸減・漸増食の期間を終え、帰宅してお風呂に入っていたところ、突然、父・開祖さまがお風呂に入ってきたのです。さらに背中を流してやろうといって、体重が落ちた息子の背中を流しながら、背中にツヤが出てきたなと、ほめ言葉ともいえないようなひと声をかけてくれました。

 ごくありふれた、親子の裸のつきあいだったのですが、私ども親子にとって、めったにないできごとでした。その経験から、相手を認め、讃えることについて、何が大切なのかが少しわかる気がします。けっしてノウハウや上手な言葉ではなく、自他のいのちの尊重と、相手の成長を心から願う気持ちに尽きるように思うのです。

平成29年6月度実践目標

2017.6.1

知る・わかる・できるの実践で

     ピンチをチャンスに転換する智慧に!

今年度も、後半の月を迎えました。後半も有り難しと、心に法の種を蒔いて感謝の真因に気づく布教伝道に邁進したいと思います会長先生のテーマは、愚痴をいわないです。次のようにご指導下さってます。

不都合なことに遭うと、私たちは不平不満を口にしがちです。俗にいう愚痴をこぼすわけですが、この愚痴という熟語の二文字は、どちらもおろかを意味します。また、

愚痴にはいっても仕方がないことをいって嘆くことという意味があります。確かに私たちは、いってもムダと知りつつも不平不満をいい、ときには思いどおりにならないことを人のせいにしてまで愚痴をこぼすのです。

 私たちがなぜ、そこからなかなか抜けだせないのかといえば、自分の知っていること、思っていること、考えていることが絶対に間違いないという錯覚にとらわれているからです。まさに、私は知っているという病気にかかっているのです。

 私が正しい」「私は知っているという気持ちが愚痴の原因の一つだとすれば、その心を省みることにより、不満や文句が少なくなりそうです。そして、反省することよってものごとに対する洞察が深まると、不平や不満の対象としか思えなかったことが、仏の説法と受けとれるのではないでしょうか。日ごろから仏の教えに親しんでいると、愚痴をこぼしそうなときでも智慧の心がそれを鎮めてくれる。と経文にあります。愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ」という一節ですが、愚痴の対象が「自分に大切なことを教える仏の説法だった」と思えたとき、そこには智慧の心がはたらいているといえそうです。

 そういう心のはたらきを、よりしっかりと自分のものにする方法があります。それは、この世に共通する真理、つまり真実の道理を知ることです。この世のあらゆるものが、一つにつながるご縁によって生かされているという事実。その恩恵を受けて、いま自分がここに存在するという有り難さ。このことが明らかになり、感謝できると、愚痴は出てこないのではないでしょうか。ひとことでいえば、天地自然の道理がわかれば愚痴はいえなくなるということです。

 経文には若し愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴を離るることを得んともあります。観音さまを念じ、敬う心をもちつづけると、愚痴を離れることができるというのです。それでも愚痴をこぼしそうになったら、智慧がはたらくチャンスだと気持ちを明るく切り替え、あるいは日々の読経供養をとおして心を見つめなおして、真理にそったものの見方・受けとめ方に立ちもどればいいのです。

 

平成29年5月度実践目標

2017.5.1

有り難しが「ありがとう」となるよう、 

    おかげさまに気づく幸せ感を味わいましょう

 

若葉が燃ゆる、青年の月を迎えました。五月の第三日曜日『青年の日』には、多くの

青少年が平和の実践を通して「社会変革の風」を起こすことを期待したいと思います。

会長先生のテーマは、「させて いただく」です。次のようにご指導下さってます。

 

今月のテーマである「させていただく」について、仏教の篤信者として知られる工学博士の森政弘先生が、つぎのようにおっしゃっています。

「仏教では『させていただく』という受け止め方をするが、それは、なにごとも自分の力だけではできないからである」

(『今を生きていく力「六波羅蜜」』教育評論社刊)

たとえば、自分の力で立っていると思っている人も、「じつは大地の支えや重力があるからであって、何をするにしてもただ一つの原因とか、自分だけの力によるのではなく、他の力などによって可能なのである」というのです。ものごとはすべて、かかわる縁の作用で生じたり滅したりする~~~すなわち縁起ということです。このような宗教的な世界観から生まれた表現が、「させていただく」なのです。

その意味でこの言葉には、本来、私たちを常に「生かそう、生かそう」とはたらいてくださる大いなるものに対する、感謝の念が含まれているといえます。

「おかげさまでさせていただくことができます」という気持ちです。

私たちは、ふだん何気なく「させていただきます」と口にします。それは、先ほどお話ししたように、「おかげさまでとりくむことができます」「させていただけることがありがたい」

という気持ちのあらわれです。ところが、この「おかげさま」や「ありがたい」を忘れてしまうと、「してやる」といった自我が顔をだします。そこで、たとえば「させていただく」の前後に「おかげさまで」や「ありがたい」を添えると、それがそのまま素直な気持ちになります。ものごとは形がとても大事であるといわれますから、繰り返し「おかげさまで、させていただけることがありがたい」と口にしていれば、縁起の教えがしっかりと胸に刻まれ、いつでも心からそういえるようになるのではないでしょうか。理想をいうと、そうなれば「させていただく」その感謝の実践は、仏・菩薩の遊戯三昧のような、とらわれのないうれしさ、楽しさにつながりそうです。

ただ、心から「させていただきます」といい、神仏への感謝の念をもってとりくんでいることも、それが必ずしも喜びや楽しさに直結しないケースもあるでしょう。介護やボランティアの現場では、複雑な思いでとりくむことも少なくないと聞きます。だからこそ、信仰をもつ私たちは、日ごろの生活のなかで仏さまへの帰依の念を養い、「大いなるものに生かされている自分なのだ」という自覚と感謝に目ざめることが大事なのだと思います。

平成29年4月度実践目標

2017.4.1

いのち(真理のはたらき)を自覚し

ムダ・ムラ・ムリなく、相手と調和する努力を!

 

降誕会の月を迎えました。お釈迦さまのご生誕をお祝いし、お互いさま

今、いのちあることに感謝し、法の悦びを伝えてまいりたいと思います。

会長先生のテーマは、「時間の浪費」です。次のようにご指導下さってます。

 

私たちは、たとえば一日じゅう寝転んで無為に時をすごすことを、時間のむだ遣いといったりします。わずかな時間も惜しんで何かに打ち込む。それが有意義な時間の使い方であり、時間の浪費は人生のむだに他ならない、と。

「毎日を最後の一日だと思って生きなさい」とは、古代ローマの思想家・セネカの言葉です。時間をむだにしないよう、こうした心がけで日々を送ることが大事と、昔からいわれています。ただ、時間の浪費ということを天地自然に照らして考えると、時間そのものに縛られない、もっとゆったりとした大らかな視点がありそうです。

宇宙が誕生した不思議。その宇宙で、生命体が存在するための要素を具えた惑星・地球に、人間として命をいただく不思議。そしていま、天地自然の大調和のなかで生かされていることの不思議・・・・。このような大きな視点で時間の使い方を考えてみると、自分の狭い考えで「あの時間はむだ」とか「浪費だ」とはいえない気がします。

何もせずに寝転んでいる姿は、怠けているようにしか見えないかもしれません。けれども、仏法の本質からすれば、人も物もすべての現象も、どれ一つとして、むだなものはないと見えてきます。「法の体は迷悟なく、凡聖なし」という言葉もあるように、自分勝手に凡夫と聖人を分別するような見方ではない、神仏の大いなるはたらきを感じとることができます。

 

では、調和の世界に住む私たちにとって、何が「時間の浪費」といえるのでしょうか。

私たちはみな「この世に願って生まれてきた」と、法華経にあります。しかも、それは多くの人の幸せのためにと説かれています。つまり、私たちは調和の世界の一員として、みんなが幸せに生きられるよう、その調和を保つために生まれ、かつ生かされているということです。

道元禅師は「生死流転する自分の身心を省みて、自分よりも他の人が先に幸せになるようにと願う菩薩の心を起こしなさい」と書き残しています。無常、さらには絶妙のバランスでこの世を成り立たせている天地自然の不思議を観じたならば、ともに調和を築く者として、お互いに尊重しあい、仲よく生きなさいというお諭しでしょう。

日本はいま、ちょうど草花の萌え出づる春を迎えています。その草花を愛で楽しむことは、命の不思議や無常を観じる感性にも通じます。それはまた、いまを精いっぱい生きることの大事を知る機会でもあるのです。

平成29年3月度実践目標

2017.3.1

創立の精神をかみしめ、大らかに楽々と、悦びの種を

           蒔きに歩きましょう。

 

創立の月を迎えました。本会の創立をお祝いするとともに、創立の意義を深く認識し、新たな決意で精進をお誓いしたいと思います。

会長先生のテーマは、「肯定的か、否定的か」です。次のようにご指導下さってます。

 

人は、年齢とともに体のあちこちに支障が出てくるようです。私も体の痛みや、それにともなう若干の不自由を味わっていますが、そうした現実からいくら逃れたいと思っても、逃れることはできません。そして、そのようなときに心が向かう先は、まず「つらい」「苦しい」「困ったものだ」「早く元どおりに治らないだろうか」といった、いわば現状に対する否定です。体の支障だけでなく、私たちは自分の思いどおりにならない現実を不満に思い、マイナスのこととして見る傾向があるようです。野菜農家にとっては恵みの雨か、洗濯物を干したり、観光を楽しんだりする人にとっては恨みの雨になるように、心は自分に都合よくはたらくことが多いのです。

ただ、「いやだ」「なんてこんなことに」と不満に思ったところで、現実はどうなるものでもありません。ならば、「いやだ」と思うその感情をいったん離れ、客観的に、そして肯定的に現象を観察してみてはどうでしょうか。視野を広げると、心も豊かになると思うのです。

私は、「この体の痛みは、同じような痛みをかかえる人を思いやれるいい体験だ」と受けとめています。

先に「恵みの雨」と「恨みの雨」の話をしました。あれは雨という一つの現象を見るときの一例ですが、ものごとを多面的に見ると、どれほどつらく苦しいことのなかにも、必ず「有り難い」と思える要素が見出せます。なぜなら、この世に無駄なものは一つとしてないからです。仏教学者の紀野一義さんは、「現象やものごとはすべて真実のすがたをあらわしている」という「諸法実相」の教えをもとに「人が生まれたり、死んだりすることも、この世で起こるさまざまな出来事も、その一つ一つを実相として肯定していかなければなりません」といっています。つまり、私たちが見たり聞いたり経験したりすることはすべて、紀野さんの言葉を借りれば「肯定、肯定、絶対肯定」する以外に、受けとめようがないということです。

ものごとを肯定的に受けとめられないときに、自己をふりかえるポイントをおさえてみましょう。人を否定する気持ちが拭えないときには、「やさしさを忘れていないか」。現象を肯定できないときには、「素直さを失っていないか」。この二点です。自分の思い、つまり我でものごとを見るとき、人はやさしさや素直さを見失いがちなのです。

ものごとを肯定して見るとは、大らかに楽々と生きるということです。肯定的な見方と否定的な見方のどちらが幸せかは、そのことでも明らかではないでしょうか。

平成29年2月度実践目標

2017.2.1

仏教の根本に学び 「いまを大切に生きる・自ら変わる」実践を!

 涅槃会の月を迎えました。お釈迦さまをお慕い申しあげ、お互いさまに菩薩行に邁進させて頂きましょう。

会長先生のテーマは、「気にしない人」です。次のようにご指導下さってます。

 私たちはふだん、いろいろなことを気にして暮らしています。気にする必要のないことや、気にしても仕方のないことにとらわれて、悩んだり苦しんだりしていることも多いようです。日ごろ、人からの評価やうわさ話にふり回されていらいらしたり、まだ起きてもいない先のことを心配して心を曇らせたりすることはないでしょうか。

ところが、世の中にはそういうこととはまるで無縁であるかのような人がいます。それはたとえば、ものごとに頓着しない大らかなイメージの一休さんや良寛さんです。逸話で知る限り、人から悪口をいわれても気にしない、くよくよしない、悩まないといった羨ましい生き方に思えます。

では、この二人と私たちとの違いはどこにあるのかを考えてみましょう。まず思いつくのは、名誉や利得といった世俗の価値観にとらわれていないことです。私たちはつい、権威や世俗の価値に照らして人と自分の評価を比べ、さらにはものごとを損得勘定で判断しがちです。

ところが仏教では、出会う人も、身の回りで起きるできごとも、すべてが、私たちに大切なことを教える仏のはからいであると教えています。ものごとをそのように受けとめると、そこに優劣や序列や損得はありません。したがって、そういうことにとらわれる必要もないのです。一休さんや良寛さんの目には、すべてが有り難い存在と映っていたのではないでしょうか。 

一休さんや良寛さんのような「気にしない人」に本質的に変われたら、いつでも安心して生きることができます。幸いなことに、本誌を手にされているみなさんは、二人が求めたのと同じ仏の教えに縁ある方々です。諸行無常、諸法無我、一切皆苦といった仏教の根本とともに、すべてを仏のおはからいと見ることや自らを深く省みることを繰り返し学ぶことで、

「気にしない人」に自ずから変わっていくのだと思います。

ところで、私たちは気にしても仕方のないことまで気にするわりに、つねに心にとめておきたい大切なことは忘れがちです。その一つは「いま」です。過去や未来を思い煩うのではなく、「いま」をもっと大切に生きましょう。そして、人を思いやることを日々実践していきたいものです。

今月の十五日は、釈尊の涅槃会です。涅槃とは「すべての束縛から解脱すること」ですが、

束縛を放れて思いやりに生きることが、自由で明るい人生を約束するのです。

平成29年1月度実践目標

2017.1.1

水の流れるが如く、「切実な志」に随い 実践して参りましょう!

新たな年を迎えさせて頂きました。信行方針をしっかりと心に刻み、心新たに布教伝道を通して心田を耕す精進に邁進してまいりたいと思います。

会長先生のテーマは、「地道に、淡々と」です。次のようにご指導下さってます。

「一年の計は元旦にあり」といいます。年の始めに「今年はこのような一年にしよう」と胸に期すれば気持ちが引き締まり、さわやかに一年のスタートをきることができます。

ところが、元日に決めたことですら、三日もたつと忙しさに紛れて忘れてしまうのです。そこには、努力の積み重ねよりも成果に重きを置く心や、新たなことにとりくむ余裕のなさがあるのかもしれません。

「元日の雪といへども卸さねば」(広中白骨)の句が示すように、どのようなときでもなすべきことをていねいに行なう心のゆとりと落ち着きをとり戻すことが、いま私たちには必要なのではないでしょうか。時間に追われ、効率や成果にふり回されることなく、地道に、淡々とやっていく。そこに人間らしい生活やほんとうの幸せがあるように思うのです。

なにごとも急がず息まず、循々と行なっていくなかに、人としての成長があるのだと思います。ほんとうに成熟した人間の味わいは、小さなこともおろそかにしない日々の地道な営みによって育まれるものなのでしょう。

目先の損得に左右されず、落ち着いて淡々と、着実になすべきことをなす。そのように生きることができればいつも心穏やかでいられ、人間としての向上も期待できそうです。しかし、胸に期したことを継続すること一つとっても、それがとても難しいのが私たちの実際かもしれません。

仏道修行で大切なことは何かと聞かれた道元禅師は、「仏道を学ぶのに才能は必要ありません。志を発して自分の分に随って学道に努めれば、必ず仏法を得ることができます」といいきっています。ただし、「欣求の志の切なるベき」、つまり、つねに、そして繰り返し求める気持ちが大切だというのです。あれをしよう、これをしようと一念発起したつもりでも、そのもととなる「切実な志」がなければ長つづきしないということでしょう。

見方を変えれば、志に随っていま目の前にあることの一つ一つにていねいに向きあえば、その歩みはたとえ地道ではあっても、必ず実を結ぶということです。また、志があればものごに一喜一憂しない余裕が生まれるので、落ち着きのある淡々とした生き方にもつながるはずです。

道端のゴミを拾う、「足るを知る」を心がける、三つの実践としていつもお話しする。「朝

のあいさつ、ハイの返事、履物を揃える」というのもいいでしょう。身近でできることを地道にこつこつと、できれば目立たぬように淡々と実践することなのです。お互いさま、一日

一日を大切にし、年の終わりには楽しい嬉しい一年にいたしましょう。

 

平成28年12月度実践目標

2016.12.7

懺悔と思いやりの心の繰り返しによって、

    常に 本尊に愧じない 生き方を!

 

十二月、釈尊成道の月そして奈良教会発足の月を迎えさせて頂きました。二十八年度を懺悔と感謝の心で、布教精進に務めたいと思います。

会長先生のテーマは、「仰いで 天に愧じず」です。次のようにご指導下さってます。

 

 年末年始は、何かと人が集まる機会がふえます。そのようなとき、たとえばみんなでおやつをいただくとします。それはだれもが大好物のお菓子なのですが、ただ大きさが大小まちまちです。さて、あなたは大きいほうと小さいほうのどちらに手を伸ばすでしょうか。

仮に「大きいほうがいい」と思っても、おそらく多くの人が比較的小さなお菓子を手にとるように思います。なぜなら、欲望まるだしの態度は人として恥ずかしいという気持ちがはたらくからです。

 これは、ごく卑近な例ですが、私たちはこのように、自分が恥ずかしいと思うことや、自分にやましいことはしないという心の姿勢を、「恥を知る」という言葉で昔から大切にしてきました。ある学園では、「恥を知れ」を校訓にしています。自分の良心に恥じない生き方を身につけることが、人間教育の基本でもあるということでしょう。

法然上人は「はづべし、はづべし。かなしむべし、かなしむべし」と、ひたすら自己を省みる言葉を残しています。日本の偉大な碩学として知られる安岡正篤師によれば、人間の人間らしさとは、一つには尊いもの、偉大なるものを求めるところにあり、そこに敬する心が生まれるといいます。さらに、その心が発達すると「自分の低い現実を顧みてそれを恥ずる心が起こる」というのです。宗教的にいえば、信仰が深まれば深まるほど厳粛に自己をみつめ、懺悔せずにはいられないということでしょう。法然上人の言葉は、まさにそれを証明しています。神仏を仰ぎ、敬い、神仏と向きあうときに生まれる「自分はまだまだ至らない」という慚愧の思い。それは、釈尊が「恥じることを知る心は、どのような衣服よりも人を清く、美しく飾る」といわれるとおり、私たちの人間的成長に資する原動力となるのです。その意味で「仰いで天に愧じず」とは、偉大なるものに少しでも近づこうとする人間性豊かな生き方といえるのです。

 とはいえ、それは特別な生き方ではありません。神仏にも、人にも、自分にも、いつも誠実を旨として生きることが大切だと思います。人には礼を忘れず、当たり前のことを当たり前に行なう。そして、人を思いやる心を忘れなければ、やましいことのない晴れやかな心で日々を過ごすことができるのです。

 それでも、道に迷いそうになることがあったら、まず人さまの心を大切にしましょう。素直に人のために働いているときに、自分の利益を先にする気持ちは起きないからです。人は、懺悔と思いやりの心の繰り返しによって、少しずつ成長していくものなのかもしれません。

平成28年11月度実践目標

2016.11.1

 開祖さま譲りの笑顔で、

     「すべては自分」 「まず人さま」の心  、 菩薩の生き方 を!

 

十一月、開祖さま生誕会の月です。開祖さまのご生誕をお祝いするとともに、開祖さまの

ご因縁をかみしめ、報恩感謝の実践をさせて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは、「笑顔が幸せをつくる」です。次のようにご指導下さってます。

 

昔から「笑う門には福来たる」といいます。いつもニコニコしていて笑いが満ちている家庭には幸福が訪れるという意味です。家族が笑顔でいられるのはそれだけで幸せだと思いますが、今年の本誌六月号(「開祖法語録」)によると、「いつもニコニコしている秘訣は何か」と問われた開祖さまは「いつも裸でいるからですよ」と答えています。

我の鎧兜を脱いで裸になる、つまり正直になると、気持ちが楽になります。そうなれば、どのようなときも笑顔でいられる~~。それが、本会内はもちろん、外部の方からも「庭野スマイル」と呼ばれるほど印象に残る、開祖さまの笑顔の理由の一つのようです。

ただ、開祖さまも人間です。笑顔を忘れるほどつらいことや悲しいこともあったはずです。私の記憶では、笑顔が開祖さまの代名詞のようになるのは、中高年になってからのような気がします。事実、わが家のアルバムに収められている開祖さまの写真を見ると、若いころのものにはほとんど笑顔が見られません。本会の創立当初はもちろん、WCRP(世界宗教者平和会議)を発足してからのさまざまなできごとを思えば、当時は笑顔を浮かべる余裕などなかったのかもしれません。

機関誌の記事のなかで「開祖さまは、受けがたいさまざまな困難に出合われても、ニコニコとお受けになられた」と語っています。また、開祖さまの笑顔に関する別の記事は、「笑顔の奥に、悲しみや怒りや無念さを抑え、笑顔に昇華する修行がある」と伝えています。

開祖さまにとっては、「ニコニコ顔」もまた一つの精進であり、それがやがてほんとうの

笑顔に昇華されていったということでしょう。見方を変えれば、それはつらいできごとをすぐに笑顔の種に変えることができる信仰であり、そこに幸せがあることを身で示してくださったともいえます。

 

笑いには、体温を上げて免疫力を向上させるといった健康効果があるといわれます。さらに笑顔には、そこにいるみんなを仲よくさせる調和の効果があると思われます。笑顔は、自分が幸せになる精進の一つであると同時に、みんなの幸せを願うところに生まれるものでもあります。

外部の方が、よく「佼成会の信者のみなさんの笑顔がすばらしい」と評してくださいます。たいへん有り難いことですが、それはきっと普回向の精神による菩薩の笑顔に違いありません。それはまた、今月、生誕一一〇年を迎える開祖さま譲りの笑顔ともいえるのでしょう。