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まほろば 奈良教会長コラム

平成26年2月度実践目標

2014.2.23

『みんな、そのままで布施をしてくださっていると、感謝していこう』

 

今月の会長法話のテーマは、「お世話になる、ということ」です。

二月十五日は涅槃会ですが、釈尊がご自身の身の衰(おとろ)えやその死を通して、後世の私たちに、何を教えてくださったのでしょうか?

会長先生は、次のように、おっしゃっています。

・少し前の統計によると、男性は平均寿命が七十九歳に対して健康寿命七十歳、女性は八十六歳に対して七十三歳です。これは、人生の終盤になるとたいていの人が、何らかのかたちで人さまのお世話になる可能性が高いことを意味しています。

それなのに、私たちは俗に「ピンピンコロリ」といわれるかたちの最期を迎えたいと望みます。そこには、子どもたちに迷惑をかけたくないとか、人さまのお世話になるのは心苦しいという気持ちがはたらくのですが、現実は先のとおりなのです。

・しかし、仮に寝たきりで人さまのお世話になったとしても、大きくとらえるとそれはとても意義のある布施の一つではないかと思います。 病気の人は病気の姿を、年老いた人はそのありのままの姿を見せることで、あたかも観音様の救済のごとく、人に大事なことを伝えていると受けとめることができます。その人はその人にしかできない布施をさせていただいているのではないでしょうか。 

・「人に迷惑をかけてばかり」と思っているその状態も、神仏からすると、じつはそのままで尊いことなのです。

私たちは、生まれたときからたくさんのご恩のなかに生かされています。あらゆる人やものと関係しあうなか、支えたり支えられたりして生きているのです。そのような大恩に対して私自身、具体的に何一つお返しできないのですが、それでもせめて自分にできることをさせていただくとすれば、それはただただ素直に「ありがとうございます」と、そのご恩を受けること以外にはありません。

人さまのお世話になるということにおいても、その考え方は同様です。お世話になることによって感謝の気持ちにならせていただける、そのことを素直に喜び「ありがとう」とお伝えすることが何よりのお返しではないでしょうか。

・また仏教では、布施をする人と布施を受ける人、それに布施するもののすべてが清浄であって初めて「布施」が成り立つと教えています。そこに血の通った交流やお互いの成長があるといえそうです。

 

今月も、一見不都合なこと・「×」と思う目の前の人や出来事を仏さまからするとそのままで尊い・「○」であるという見方・感性を磨かせていただきましょう。

平成26年1月度実践目標

2014.2.23

『心の眼を開き、生かされている真実にめざめていこう』

 

今月の会長法話のテーマは、「心の眼を開く」です。

新年を迎え、今年も毎日をすがすがしく新たな気持ちで、悦びの日々を送れますように、と願うものですが、なかなかそうはいかないものです。そのように毎日を楽しくすごすコツとは、どのようなことなのでしょうか?

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」という釈尊の物語に「世界をそのままに、求めるところなく、単純に、幼児のように観察すると、世界は美しかった」という一節があります。ここに述べられている「単純に、幼児のように」という視点が、じつは日々を清新に楽しくすごすコツといえそうです。

・幼児はよく「これ、なあに?」と親に尋ねます。あのように純粋な気持ちで素直にものごとを見ると、それまで気づかなかったことにも目がとまり、それが驚きや感動を誘います。

  この「気づく」というのは、ものごとのありのままに心の眼(まなこ)が開くことといえます。、気づくというのは、さまざまなことをとおして私たちに問いかけてくださる神仏の声をキャッチすることといえるからです。

・そして、幼児のような素直さ、疑う心や固定観念のない純粋さが、その気づきの感度を磨く…童心は道心に、通じるといえそうです。

・自分を傷つけ迷わせた周囲の言葉はじつはありがたい助言であったと気づいたとき、どん底にいた自分に光が差し、うれしくて涙があふれてきた…。「心の眼が開く」とはまさにこのような気づきではないかと、私はあらためて教えていただいた思いがします。そして、本当に苦しいときこそ、大事なことに気づく契機なのだと。

また、もう一つここで大切なことは、気づきのきっかけはなんであれ、自分にないものには気がつかないということです。ふれる縁に触発されて自分にあるものがめざめたといえるのです。

・私たちにとって大事なのは、生かされている真実にめざめることにほかならず、素直になれば、いつでもそれは可能なのだと思うのです。

 今月は、一見不都合と思う目の前の人や出来事(×・バツ)を一旦白紙で見て、そのまま、求めるところなく受け容れ、ありがたいこと(○・マル)に気づき、生かされていることを実感させていただきましょう。

平成25年12月度実践目標

2013.12.1

『無我になり、内省し、真の寛容をめざして精進しよう』

今月の会長法話のテーマは「他者を歓迎する……寛容」です。

だれもが大らかで寛容な人になりたいと願いながら、現実は相手を許せず、認められず、イライラすることがありませんか。どうすれば寛容の精神を身につけることができるのでしょうか? 会長先生は次のようにご指導くださっています。

・寛容ということを考えるとき、私は仏教思想家として知られる毎田周一師のつぎ

の言葉を思い出します。

「寛容とは、正に『世界は一なり』の認識であり、ここに立脚してこそ、真の人類の平和がある」

・この世にはさまざまな宗教がありますが、めざすところはいずれも自我を捨てて神仏に帰依するという一点であり、どの教えを信じようとも帰依すなわち自我を捨てると、対立することはもちろん表面的な差異にも意味はなくなり、「世界は一つ」という真実の認識に到達する……そこに、ほんとうの意味の寛容があるということです。

・寛容というと、つい相手を許すとか認めると考えがちです。しかし、平たくいえば「みんな一つなのだ」と気づくことであり、それが寛容の真精神ということでしょう。

・寛容は大きくは世界の国々の関係においても、そして私たちの日常生活でも大事な精神ですが、省(かえり)みればしばしば自我が頭をもたげ、寛容の実践が難しいのも確かなのです。

たとえば、人からいやなことをいわれて腹が立ったとします。そのとき私たちは、それが許せないばかりか反撃さえしたくなります。けれども、よく考えてみると、自分にまったく思い当たることがなければ、その非難はほとんど気にならないはずです。むしろ、指摘された点が自分にあるとき、私たちはそれに反応するのです。

つまり、自分にも相手にも同じ資質があり、相手はそれを見抜いて教えてくれたのだと内省できれば、そこに相手との共通点が見出せて、一つになれるのです。そのとき寛容の精神は、慈悲のはたらきによる調和をもたらします。

さらに「世界は一つ」という認識は、私たちに恐れるもののない自信に充ちた生きる智慧を与えることでしょう。なぜなら、それは目先の損得や勝ち負けを超える壮大な視座に立つことだからです。

・一人ひとりの無我と内省、すなわち真の寛容こそ明るい未来を開く礎(いしずえ)といえそうです。

今月は、真の寛容をめざし、思いどおりにしようとする自分に気づき、無我になり、何事も仏さまのなさることと内省し、思いどおりになっていないこと・「×」と思うことを受け容れ、有難いこと・「○」を見出す修行に徹しましょう。

平成25年11月度 実践目標

2013.11.2

『開祖さまに倣って 「頼りにされる人」をめざして精進しよう』

今月は、開祖さま生誕会の月です。開祖さまは人から頼りにされる方だった。世界宗教者平和会議の開催に向けて苦心されているときも、ふだん周囲にトラブルが発生したときも、それらを肯定的にとらえてつねに明るい展望を描き、プラスに転じていくリーダーシップを多くの人が頼もしく思われた、と聞かせていただきます。

ところで、こうして人から頼りにされる「鍵」は一体どこにあるのでしょうか?

会長先生は次のようにおっしゃっています。

・法華経の観世音菩薩普門品に世間や人びとを観る観音さまのまなざしを讃え、私たちに「これを手本としなさい」とうながす「五観」があります。

「真理を通してこの世を観ると、我や執着のまじらない澄みきったものの見方ができ、そのことによって、すべてが仏のいのちのあらわれであり、何を見ても、だれに対しても自他一体と思えます。すると人の苦しみはわが苦しみとなり、その苦をとり除いてあげたいと願わずにはいられなくなると同時に、一人でも多くの人を幸せにしたいという気持ちがわき起こるのです。このような眼(まなこ)を得たいと願い、観世音菩薩を仰ぎ見て、手本としていきたいものです。

・人にものを頼まれたときにいやな顔をせず、笑顔で「はい」と言ってさせていただく。そのような身近なふるまいのなかに「五観」の働きが認められると思うのです。そうしたことを自然にできる人は、おのずと多くの人に信頼されることでしょう。

・リーダーの資質に、信念を貫く気概や、ものごとを明るく肯定的に受けとめることがあげられますが、見方を変えると、それは頼りにされる人の資質といえそうです。

・ただ、人から頼りにされるというのは、都合よく人に使われることを意味する場合もあります。「母親は もったいないが だましよい」という川柳があります。母親からすれば、子にだまされていると知っていても、それを受け入れることを厭わない。三人の子どもがいたら、それぞれに三分一ずつではなく、持てるすべての愛情を一人ひとりに注いでいくのが親心というもの。乳飲み子が母親に絶対の信頼を寄せるのは、おそらく、その親心が子に伝わるからでしょう。

・人から頼りにされる。その鍵は、いつでも人を思いやる親心にあり、それはまさに観音さまの慈悲と重なります。

今月は、開祖さまに倣って、人から頼りにされる人になれるよう、頼まれごとを素直に感謝して受け容れて人を喜ばせる練習を精一杯させていただきましょう。

平成25年10月度実践目標

2013.10.1

「ものごとをありのまま受け容れ、幸せのただなかにいることを味わおう」

思いどおりにならないことがあると、あの人のせいだとか、あれさえなければ、とか考えるものの、気持ちはスッキリせず、悩んだり苦しんだりしませんか。苦しんだり悩んだりしないで、楽しく生きていくために、あなたはどのようにしていますか?

会長先生は次のようにおっしゃっています。

釈尊は法句経(ほっくきょう)のなかで、はっきりとこういわれています。

「ものごとは心にもとづき、心を主(あるじ)とし、心によってつくり出される。もしも汚(よご)れた心で話したり行(おこ)なったりするならば、苦しみはその人に尽き従う」

他と比べてきれい・汚(きたな)い、善(よ)い・悪い、上(うえ)・下などと分別し、汚れた心で、自己中心にものごとを見る、釈尊は、それが苦しみを生むといわれるのです。

では、その自己中心のもとにあるもの、苦しみや悩みを生む汚れた心の正体とはなんでしょうか。

法華経では、明快に「諸苦の所因は貪欲(とんよく)これ本(もと)なり」と説き、必要以上に欲する心を苦の要因としています。

苦悩は他からもたらされるのではなく、じつは自分の内側から生まれてくるようです。

苦しんでいるとき、私たちは多欲で執着(しゅうちゃく)がある。端的には、それが仏教の答えといえるでしょう。ですから、苦しんだり悩んだりしないためにどうすればいいかは、もう、だれでもおわかりのはずです。

・「足るを知る」こと、自己中心の欲望を少し抑えることで、苦しみ悩むことがずいぶん減ることになります。

・感謝を忘れず、欲をほどほどに抑えてとらわれやこだわりをもたないことが、身心ともに楽に生きる秘訣といえるでしょう。同時に、楽もまた自分の心がつくることも承知しておきましょう。

・「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人に尽き従う」(法句経)。

これは、ものごとをありのまま受け容れることができれば、たとえ厳しい現実も楽の種になることを教えています。見方一つで、私たちはいつでも幸せのただなかにいることを味わえるのです。

今月は、開祖さまに倣(なら)って、仏さまに護(まも)られている、何事も仏さまのなさること、と信じ、思い通りにならないことを「×」(バツ)と見ないで、まず真っ白で見て、その中に「○」(マル)・「ありがたいこと」を見い出していく練習を徹底させていただきましょう。

平成25年10月度実践目標

2013.9.30

「ものごとをありのまま受け容れ、幸せのただなかにいることを味わおう」

思いどおりにならないことがあると、あの人のせいだとか、あれさえなければ、とか考えるものの、気持ちはスッキリせず、悩んだり苦しんだりしませんか。苦しんだり悩んだりしないで、楽しく生きていくために、あなたはどのようにしていますか?

会長先生は次のようにおっしゃっています。

・「ものごとは心にもとづき、心を主(あるじ)とし、心によってつくり出される。もしも汚(よご)れた心で話したり行(おこ)なったりするならば、苦しみはその人に尽き従う」(法句経・ほっくきょう)。他と比べてきれい・汚(きたな)い、善(よ)い・悪い、上・下などと分別し、汚れた心で、自己中心にものごとを見る、釈尊は、それが苦しみを生むといわれるのです。

では、その自己中心のもとにあるもの、苦しみや悩みを生む汚れた心の正体とはなんでしょうか。法華経では、明快に「諸苦の所因は貪欲(とんよく)これ本(もと)なり」と説き、必要以上に欲する心を苦の要因としています。

苦悩は他からもたらされるのではなく、じつは自分の内側から生まれてくるようです。

・足るを知ること、自己中心の欲望を少し抑えることで、苦しみ悩むことがずいぶん減ることになります。

とはいえ、そうとわかっていても、それがなかなか徹底できない人も多いのです。

・「処世のおきて」というゲーテの言葉があります。「気持よい生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと、滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること」。仏教の立場からすると、結びの言葉は「仏にまかせること」となりますが、感謝を忘れず、欲をほどほどに抑えてとらわれやこだわりをもたないことが、身心ともに楽に生きる秘訣といえるでしょう。同時に、楽もまた自分の心がつくることも承知しておきましょう。

・「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人に尽き従う」(法句経)。これは、ものごとをありのまま受け容れることができれば、たとえ厳しい現実も楽の種になることを教えています。見方一つで、私たちはいつでも幸せのただなかにいることを味わえるのです。

今月は、開祖さまに倣(なら)って、仏さまに護(まも)られている、何事も仏さまのなさること、と信じ、思い通りにならないことを「×」(バツ)と見ないで、まず真っ白で見て、その中に「○」(マル)を見い出していく練習を徹底させていただきましょう。

平成25年9月度 実践目標

2013.9.3

「人に与えることを喜びとする感性を磨き、実践し続けよう」

仏教では、思い通りにならないことを苦といい、さらに思い通りにしようとするとその苦が深まる、思いを捨てることで苦は滅する、と教えてくださいます。どうすれば、思いを捨てることができるのでしょうか?

会長先生は次のようにご指導くださっています。

・今、とてもおなかをすかせたあなたの目の前に、おにぎりがひとつある  とします。ところが、まわりの人も同じように空腹です。みなさん、どうされるでしょうか。

人に譲(ゆず)る人。分け合おうとする人。あるいは、ひもじさから奪い合いを始める人がいるかもしれません。

伝教大師最澄は「己(おのれ)を忘れて他を利する」ことが慈悲を実践する極(きわ)みといわれていますから、仏教徒としてはおにぎりを『まず人さまに』と譲(ゆず)りたいところですが、私たちはなかなか欲から離れられない一面があります。

それでも私たち人間には本能的に、欲望を満たすこと以上の幸せや喜びを感受する能力が具わっているようです。

その感性がはたらくスイッチは何かといえば、人の喜ぶ顔や姿です。

人から一方的に何かをしてもらう喜びより、誰かに何かを与える喜びの方が大きく、自分の行為が人の幸福や喜びにつながるとき、それは生きがいにも通じるのです。

人に利益を与えるとき、そこにはほかのことではとうてい味わえない楽しみや喜びがあり、それはどんな賞賛や損得勘定も超えるということでしょう。

・もっとも、こちらがいくらその人のためにと思っていても、相手の気持ちや都合を無視しては独(ひと)り善(よ)がりになることもあり、場合によっては「余計なお世話」とばかり迷惑がられることさえあるかもしれません。

とはいえ、相手が思いを受けとってくださらなくても、「人に与えることを喜びとする心が自分にもあった」と発見できるのは大きな喜びです。まして人に譲(ゆず)ることができたら「欲をすてられた」と、気持ちがすっきりするのではないでしょうか。それを繰り返していくところには感動と喜びと、心の成長があります。

身で、心で、財物で、人に喜びを与えて得られる喜びや爽快感(そうかいかん)は、「またさらに思いやりの実践を」との気持ちを起こさしめることでしょう。そうして、いつでも思いやりを実践するなかに、生きる喜びを味わうことができるのです。

人が喜ぶのは、自分を認められた時、ほめられた時、と教えていただきます。今月も、ありのままを受け容れ、そのなかに「○」(マル)・「ありがたいこと」を見いだし、伝えていく、このご法を人さまにお与えしていきましょう。

 

平成25年8月度 実践目標

2013.7.31

『「水の流るゝ如く」、現象をありのまま見つめ、受け容れる人間になろう』

今月の会長法話のテーマは、「水に学ぶ」です。

人から何かを頼まれたとき、苦手だ、いやだとあれこれ考えて断ったもののスッキリしない、今日はいやな縁にふれたと心が波立ちスッキリしない、というようなことがよくあるものです。 そんなとき、どのようにして心をスッキリさせていますか?

会長先生は次のようにご指導くださっています。

・水は私たちにさまざまなことを教えています。

「法」という字は「水」(さんずい)が「去る」と書きます。これは、水が自然に高いところから低いところへ流れるように、普遍的な法則の意味があります。

それを私たちの日常にあてはめると、素直になるということでしょう。

少し乱暴な言い方かもしれませんが、苦手だ、いやだと、あれこれ考える前に「はい」といって受けていく。それが仏さまの教え、つまり法に随(したが)う生き方であり、このように実践して初めて法が生きるのです。

私は先ごろ、「こころの眼(まなこ)を開く」を上梓(じょうし)しました。その巻頭に「水の流るゝ如く」と書き添えたのは、私自身がそうありたいとの願いからにほかなりません。

・弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)に「水は自性(じしょう)なし 風に遇(お)うて すなわち波たつ」の言葉がありますが、これは、定まった性をもたない水になぞらえ、日々の縁は受けとめ方しだいであるとも、また、ふれる縁によって心を波立たせることの多い私たちですが、そんなときには、慌(あわ)てず騒がず、現象をありのまま見つめ、受け容(い)れることが大切であるというお諭(さと)しとも受けとめることができそうです。

・道元禅師の和歌「峰の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼(しゃかむに)の 声と姿と」は、「いま私たちが目にし、耳にしているものごとは、みな、そのまま、お釈迦さま(久遠仏))(くおんぶつ)の声と姿であり、説法である」ということです。

・生命に欠くことのできない水、私たちはその水に学ぶことが、たくさんあると思います。

今月は、会長先生に倣って、「水の流るゝ如く」、現象を「ゼロ」「真っ白」「ありのまま」見つめ、受け容れ、「プラス」「ありがたいこと」と受けとめていく生き方を身につけられるよう、精進させていただきましょう。

 

平成25年6月度実践目標

2013.5.31

「すべての存在はありのままですばらしいと、ほめ称(たた)える人間になろう」

今月の会長法話のテーマは、「ほめ称(たた)える」です。

いろいろなご縁を通して、自分も人もともに成長できたらいいですよね。一体どうしたら、そのようになれるのでしょうか? 会長先生は、次のようにおっしゃっています。

 ・ある集まりで、親が子の個性を把握し、その良いところをほめていくと、子どもの美質がどんどん伸びていくというお話をさせていただきました。

 ・利益を追求するビジネス社会でも、社員同士が年齢や肩書に関係なく、良いところをお互いに称(たた)えあう「ほめる文化」の醸成(じょうせい)が、組織の成長につながる重要なテーマであるといわれています。人から認められ、肯定されてこそ、人は前向きになれ、より持ち味が発揮できるのでしょう。

 ・人をほめ称えることは、仏さまの心にも適(かな)う実践といえます。

「妙法蓮華経」という経典の名称を見ても、そのことは明らかです。「この世は美しい蓮の華が咲き匂(にお)うすばらしい世界で、私たちはそれほど妙(たえ)なる世界に生かされている」ということが、ここに示されています。仏さまはこの現実世界をそう讃歎しておられ、もちろんそれは私たち一人ひとりが讃歎に値(あたい)することをも意味し、法華経が讃歎の教えといわれる所以もそこにあります。

 ・ただ、やみくもに人をほめると不信を生むことにもなります。相手に「成長してほしい」と願うのであれば、その人の良いところを的確につかむことが大切です。

では、どうすればいいのかといえば、「ここが良い」「あそこが悪い」といった、その人に対する相対評価からいったん離れること。まず、すべての存在はありのままですばらしいという見地に立ってみる。そのうえで相手に目を向けると、その人ならではの長所、いわば個性の核心が見えてくるはずです。それと同時に、合掌礼拝の心を忘れないこと。ほめ言葉を探す前に合掌礼拝の心と姿勢を忘れないことです。

 ・人はほめられるとつい有頂天になります。また、謗られると落ち込む人がいます。しかし、世の中には自分をほめる人と謗る人が半分ずついてちょうどいい、という考え方もあります。ほめられたときには、自戒し、謗られても「足を引っ張る人がいてくれるから成長できる」と感謝していると、心がどんどん豊かになるに違いありません。そうして人と人が讃歎しあい、磨きあうことで自他ともに成長していけるのです。

  今月は、すべての存在、目の前の人や現象は、ありのままですばらしい、とほめ称える心ぐせを身につけましょう。

平成25年5月度実践目標

2013.5.23

「仏さまの真似をして、人を諭(さと)しながら自分が悟り、仏さまに近づいていこう」

今月の会長法話のテーマは、「怒ること、叱ること、諭(さと)すこと」です。

人と触れ合う中で気づいたことを怒ったり叱ったりして伝えたときに、反発され、悲

しく、くやしい思いをすることがあります。こちらの思いを相手にうまく伝えるには、どのような縁になればいいのでしょうか?

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・人間関係の大前提として人を尊重することがなければ、どんな教育も指導も躾(しつけ)も、相手の心には届かないでしょう。

辞書によると「怒る」とは、「激して気が苛(いら)立つこと」で、「叱る」とは、「声を荒立てて欠点を咎め、責めること」とあります。怒るのは論外にしても、人を叱って気持ちのいい人はいませんから、相手と心を通わせるには、やさしく諭すというあり方がふさわしいように思います。

 ・たとえ、愛情による叱責であっても、受ける側の気性によっては誤解を生ずることもあるでしょう。また、叱り諭す側の姿勢いかんで、威圧感が強く伝わる場合もあります。

 釈尊の十大弟子のお一人、舎利弗尊者は「叱るのにふさわしい時を選ぶ」「やさしく穏やかな言葉で話す」「慈しみの心で話す。瞋(いか)りの心では話すまい」などの戒めを修行者たちに伝えています。

 私たちはつい言わなくてもいいことを言ったり、感情的に怒ったりしがちですが、そういうときこそ、相手を尊重する気持ちと自己を省(かえり)みることを忘れずに、と舎利弗尊者は教えています。それは、そもそも「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)だからであり、「みんな仏の子」であるからです。

 ・それでも、とっさにはそのように冷静な対応はできないということであれば、感情が高ぶっていると感じたとき、仏を念じてみてはどうでしょうか。

「諭す」とは神仏が啓示、警告をして気づかせるという「悟り」に通じる意味と、言い聞かせて納得させる、教え導くという意味がありますから、人を叱ったり諭したりすることは、じつは自分自身が大切なことを学び、気づき、悟らせていただく機会といえるのです。人を思いやるやさしさがあったか、心から相手の成長や幸せを願ってふれあっていたか…。叱責(しっせき)も諭すということもそうした内省とともにあり、だからこそ叱られた人の胸には、「あのとき叱られてありがたかった」という思いがわき起こるのでしょう。

 叱られたことが感謝に変わる…いずれの場合であれ、そう願わずにはいられません。

 今月は、人を諭すという、仏さまの真似をして、自分も人も仏さまに近づく練習をさせていただきましょう。