立正佼成会 奈良教会 > まほろば 奈良教会長コラム > 令和二年十一月度 ご法話を学んで

まほろば 奈良教会長コラム

令和二年十一月度 ご法話を学んで

2020.11.1

★佼成11月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成11月号】

(朗読 MP3

 

令和二年十一月度 ご法話を学んで



皆さま、日々ありがとうございます。
いよいよ、令和二年度の結びとなる最終月を迎え、
来る次年度をどのような年度とするかという
心構えを持たせていただける
開祖さま生誕会の月となりました。

最近耳にすることが多くなったと感じるのですが、
多くの方々がコロナ禍にあってご苦労されている
中でも、不平不満を言い続けている方と、
おかげさまと感謝の毎日を送られている方の二極に振
れてきているようです。

私はおかげさまで、自粛の初期は先の見えないことに
不安感を払拭できない時間がありましたが、
しかし、開祖さまのご著書や、会長先生のご法話に
暗闇の中に灯る希望と事態に向き合う勇気を頂戴し、
教会幹部の皆さんや諸役の皆さんと共に
励まし合いながら多くの協力を得つつ、
会員の皆さまには自粛というご努力の積み重ねで、
何とかここまで務めることができましたこと
厚く御礼申し上げます。

それは、会員各家において「即是道場の精神」を
受けとめられ、菩薩行実践をご自身の生き方に
転嫁できた功徳とも言えるのではないでしょうか。

お互いさまその功徳をかみしめ、
開祖さま生誕会の月に今あることの
感謝を深めてまいりましょう。

さて、今月は『「ありがたい」といえる幸せ』と
題してご法話を頂戴しました。
前項の、『随喜の心』で冒頭から法華経の
「随喜功徳品」の教えを聞いて心から歓喜した人が、
その喜びを別の人に伝えることの功徳について、
「五十展転(ごじゅうてんでん)」の教えを
お示し下さいました。

経題の「随喜」の意味である、「他人の善い行いを見て、
心に歓喜を生じること」は私たち一人ひとりにも
経験したことがあるでしょうと、
災害復興に協力するボランティアやコロナ禍の最前線で
尽力されている医療従事者などのお姿に、
敬意や感動をもった心が震えたことを
思い出させて頂きました。

更に身近な電車の車内の小さな女の子の無垢な姿にも、
様々に感動や心が癒され心が震えるような経験を
私たちはどうしてできるかというと、
小さな女の子と同じ無垢な心や苦しむ人を助けたいという
同じ気持ちが私たちにもあると仰ってくださり、
もっと踏み込んで、「実際に行動していなくても、
善い行いに心を打たれたとき、自分はもうそこに
参加しているのです。」と示して下さいました。

自身に振り返ると、なぜそのように行動できないのか。
どうして素直な気持ちになれないのか。
という悔恨の念を強く感じ、〈
仕方がない、しょうがない〉などという言い訳をならべて、
できない理由に安心する心のクセがあるように思います。

しかしながら、ご法話では、自分も参加していることと
受け止めると、どうしたら実践できるのか。

どうすれば素直になれるのか。という前向きな気持ちにもなり、
「あとは、その思いをどう体現するか」
という会長先生のお言葉から、私たちの目標や誓願に
つながるのだと、受け止めさせていただきました。

後項では『私たちが「感謝」できるのは』にあって、
高い目標を自身の状況と比べると卑屈な心境になりそうですが、
会長先生は「感動や歓喜を生きる力に変えたり、
すばらしいできごとに出会って「ありがたい」と
感謝したりできるのは、人間独特の感性といわれます。」

人によってできることは異なるのですから、
この人間独特の感性のおかげさまで、
お互いの違いを認め自身の個性や能力を発揮していくことが
できるのではないでしょうか。

しかし、「心をもつ人間だけが、嫉妬や怒りや欲に迷い、
ときに不調和に苦しみながら生きているのです。」
とありますが、逆にいつも「ありがたい」と感謝の心で
生きることは、大自然と調和している証しだと、
受け止めることができるのではないかと思います。

更に進んで、「何ごとも素直に「ありがたい」
「うれしい」と受けとめることで、
ほんとうの心の安らぎが得られることを知っています。」
というお心に、私たちは有り難いことに、
この教えに触れることができ、開祖さま、会長先生の
お弟子に加えていただいているが故に、
知っているという実感を持つことができているのだと存じます。

ここで、感動と感謝が凝縮された法句経の一節として
【人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの、
いま生命あるは有り難し】
をご紹介下さいましたが、同じ一節について開祖さまは、
「ありがたい」というのは「有り難い」であり、
元の意味は「有ることが難い」すなわち「めったにないことだ」
というわけです。ひとから何かを頂いたり、親切にされたりしたとき
「ありがとう」というのは
「有ることが難いことをしてくださって感謝します」
というわけで、たんに「サンキュー」と礼を述べるより
格段に深く尊い意味を持っているのです。(中略)

この地球上には二百万種類以上の動物がいるそうですが、
その中で、ドブネズミやゴキブリでなく、
ブタやブロイラーでもなく、
人間としてこの世に生を受けたことは
何百万年も前からの因縁の積み重ねによるものであって、
まことに「有ることが難い」ことなのです。

われわれは、いつもはそうした有り難さを忘れていますが、
たまにはそのことに思いを致し、遠い祖先から現在の父母、
そして自分自身に至るまでの因縁の有り難さに
感謝しなければなりますまい。

先祖供養の第一の意義もそこにあるのです。
苦しみをもありがたいと思う
また、右のお言葉の後半の「いま生命あるはありがたし」
というのは、たんに生きていることが有り難い
というのではありません。

その奥には「天地の万物に生かされているありがたさ」
という意味が秘められていることを知らなければなりません。

太陽・空気・水・土・草・木などの自然物を始めとし、
米・野菜・魚など身を養うもの、羊毛・木綿など身を護るもの、
それを作っている人、それを運んでくれる人等々、
数えあげればキリのないほど
多くの人びとに、われわれは支えられ、
生かされているのです。

このことをつくづくと思えば、だれしも天地すべてのものに
感謝せずにはおられなくなるはずです。

それが人間らしい人間なのです。(以下省略)

抜粋(『佼成』1987年5月 日々ありがとうございます)

開祖さまのご法話にあるように、すべてに生かされている
私たちのいのちの有り様に気づくことが、
ほんとうの意味の感動と感謝の凝縮された心もちに、
ならせていただけるのだと受け止めさせて頂き、
これこそが、「命をいただき、
いまここに生きる人間の本質的な喜び」
ですから、人間らしい人間として素直に
人にお伝えさせていただき、まことの幸せを
私たちが広げて参りましょう。

最後に、未だ終息をみない状況ですが、
教えのおかげさまで明るく、優しく、温かくあることを
忘れずに過ごさせていただいております。

それも会員の皆さまがそれぞれの場所で
ご努力されているということが、
大きな力になっているとおもいます。

年度の最終月にあたり今一度、自身を振りかえり、
明るく、優しく、温かい自分づくりを目指して
誓願をもたせて頂きたいものです。

重ねて、今月は開祖さま誕生会の意義ある月を迎え、
全世界を巻き込んでいるコロナ禍であっても、
開祖さま、会長先生のお弟子として
ご法精進できる今あることに感謝の念を
かみしめさせて頂きましょう。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士