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まほろば 奈良教会長コラム

令和元年十一月度 ご法話を学んで

2019.11.1

「励まし」と「精進」

日々ありがとうございます。
この度は、第十六回奈良県宗教者フォーラム、並びに会長先生、奥様の奈良教会へのご来道について関係各所で記事や情報共有などによって取り上げて頂いております事は、奈良教会の会員にとっても嬉しいことでありますが、この機縁がその他の方々にとっても貴重なご縁であったことが時間を重ねれば重ねるほど深まりを感じる今日この頃です。このことを、奈良教会の宝として大切に引き継いで参りたいものです。

今月は、『「励まし」と「精進」』と題して、ご法話を頂戴しました。法華経の化城諭品の一節、「能く三界の獄より、諸の衆生を勉出したもう」から「勉出(めんすい)」とは「すすめ、励ます」こととして、「仏さまは、悩みや苦しみに満ちている世界(獄)から、無条件に出してくださるのではなく、教えによって真理を知らせ、そこから出ることを励ましすすめてくださる」ということと「教えにもとづくみずからの努力によって、苦悩の世界から出て行かなければならない」という開祖さまのお心をうけて、仏の教えに結縁した私たちは仏さまからの「励まし」を受けているのですから、苦悩の世界から出ていくための、みずからの実践が大事であるとお示しいただきました。

そこで、「《普回向》願わくはこの功徳を以て/普く一切に及ぼし/我等と衆生と/皆共に仏道を成ぜん」を私たちの生活にそって読み直すと「家族や友だちをはじめ、ふれあう人には、いつでもやさしくしよう。朝夕のご供養をとおして、自分の心と行ないを見つめよう。そうして多くの人の善き縁となり、善き友となって、ともどもにほんとうの幸せを味わおう」を大きな願いにもとづく身近な精進としてお教えいただきました。私は日ごろの生活において意識しつつ、自身の行動の基軸として持たせて頂いております。

次に、先の身近な精進としてお示しいただいた内容の最後にある、「善き友」について、お弟子の善き仲間といることは仏道の半ばであるかという問いに対して、釈尊は善き仲間といることは仏道のすべてであるという、法句経の一節ですが、「本当の友人いるか?」と問うてみますと、それぞれその時代で、その時必要な大事な友だちでしたけれども、ほんとに一生涯通して変わらない友情が保てるかというと、難しいことの方が多いように思います。時には私を叱ってくれるような、今でも私に忠告をしてくれるようなそんな友だちがいたら、幸せなことだと言えるのではないかと教えて頂いているものと思います。

続いて、後日この話を前置きとして、コーサラ国のパセーナディ王に大事な助言をしています。 「王さま、あなたは人びとの善き友、善き仲間として、率先して善きことにつとめ励むことです。すると、あなたがつとめ励む姿を見たり聞いたりした人はみな、王さまからどんな叱咤激励を受けるよりも強く、『私も怠らずに、つとめ励もう』と思うはずです」と説き示されたのです。これは、私たちへの助言でもあって、親が子に幸せを願って激励するとき、まず自分がどのような人間になりたいかという「心願」が大事ということに通じる説話であるそうです。ここまでのご指導の中で、「善きつとめ励む」ということが大切なキーワードであるようです。それは、暮らしの中にある当たり前のことを、なおざりにせずに日々を生きることで、いつでも当たり前のことを一つ一つ感謝して行ない、まわりの人と一緒に心を磨いて幸せを味わう。それが「精進」であり、「皆共に仏道を成ぜん」ということとお示しいただきました。化城諭品の中にもあるように私たちは時として怠け心が起こり、当たり前のことさえできないことがあります。そのとき、私たちを支えるのは志や願いです。と理想を思い描き目指すことができる人生の有り難さを、改めてかみしめさせて頂いたところであります。

最後に、すべての人にほんとうの幸せをと願う仏を理想とし、人びとの「善き友」でありたいと願ってという結びのお言葉に、会長先生の大いなるお慈悲の中に、入れて頂いている安心感と、全ての人の幸せを願って下さっているお心に報恩感謝で修行精進を決定して参りたいと存じます。今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌
奈良教会長 中村 浩士