まほろば 奈良教会長コラム

令和元年九月度

2019.9.1

令和元年九月度 ご法話を学んで

「違い」があるからこそ

 

日々ありがとうございます。

先般行われました、会議の機会に、大ベテランの先輩教会長さんに、現在、奈良教会として、取り組んでいる手どりPJについて、会員の皆さん方の取り組む姿勢について、ご自身の教会の方も学んだと仰っていただき、大変恐縮ですが、奈良教会の皆さんの努力を誉めて下さったように感じ、とても嬉しくその言葉を頂戴しました。誠にありがとうございました。

 

さて、今月は、『「違い」があるからこそ』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

前半の“みんなを愛おしむ心”では、紀貫之の恋歌一つを引き出され、その恋歌は「真実」を歌っていることを通して、『その「真実」とは、人はみな心の根底において、この世に存在するすべてのものを愛おしいと感じ、慈しんでいる、ということです。』と、しかしながら、現実にはそうとは言えない状況があることで悩み苦しんでいる。多くの人が、他人との違いを受け入れられずに無益な争いまでしていることを残念に感じて下さっていました。そんな中でも私たちに出来ることがあり、それは、「私の胸の内にも、この世のすべてのものごとを愛しいと感じ、慈しむ心がある」と自覚をすることです。と示してくださいました。

 

後半には、“「違い」がある意味と尊さ”にて、私たちは、一人ひとり異なる因と縁によって生まれてきているからこそ、どんな人も違いがあることは当然で、見方や考え方が違うことを排除することは、自分の個性を否定することと同じだと教えて頂きました。

宗教においても違いがあるということは、この地球に生きるすべての人に安心を与えるために、宗教、宗派のそれぞれの個性を発揮してお互い補い合っているのだとすれば、宗教は慈愛の一点においては一つに結ばれていることがわかり、私たちもその、はたらきかけによって菩薩の生き方に目覚めさせて頂いたことが理解できるのではないかと存じます。

会長先生のご体験から、意見の異なる人に出会ったときには、「私にはない考えをもっておられて、すばらしいな」感じられ、まだ知らないことばかりの自分であると教えられるのです。というお言葉から、私は最大級の謙虚さを学ばせて頂きました。

 

先日、電車移動をしているとき、空いている電車の連結部に近いシートに座ったときに、向かい側にはシュッとした会社員風の男性が足を前方に投げ出した足組状態で、スマートフォンを凝視している青年が座っており、連結部のドア前まで出た足に「行儀の悪い青年だな」と悪印象を感じていました。そこに少しふくよかなご婦人が、気にせずにドアを通過していきました。青年は足を引いて通したのですが、ご婦人はドアを開けっぱなしのまま通過して行ってしまいました。その瞬間、向かいの青年と同時に立ち上がり、私はドアを押して、青年はドアを引いて、ドアを閉めることになったことで、先程の悪印象は、どこかに行ってしまって、結構良い青年だという好印象に変わり、先ほどまでの事も、少し許せる気持ちになっていることに気がつきました。自身のご都合解釈に笑ってしまいましたが、会長先生のご法話にある、『違いを認め、受け入れ相和し』というところについてのヒントにもなるのではないかと思います。更に、ドアを同時に閉めた時に、お互いに会釈して感謝を表していたことを思い出して、『お互いに喜びあえるほうが幸せではないでしょうか』というご法話の様子に近いのではないかと思ったのでした。

この、出来事は一瞬の出来事でしたが、結びとしての『如来の説法は一相一味なり』という「薬草諭品」の一節のように、仏さまの教えは本質的にはひとつでありそのはたらきもひとつである(そのはたらきは、すべての人を仏の境地に導くこと)という仏意を感じる瞬間でした。電車を降りてからも、心が柔らかくなっている自分自身を感じながら駅を後にしました。是非ともそのような心境に皆さんにもなっていただき、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士