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まほろば 奈良教会長コラム

平成28年度10月度実践目標

2016.10.1

祈りの先にある、

仏の願いを常に忘れず、方便力を駆使しよう!

 

十月、開祖さま入寂会の月です。ご入寂された開祖さまを偲び、「追慕・讃歎・報恩感謝・継承・誓願」の心をもって、報恩感謝の実践に努力精進させて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは、「祈りの先に・・・・」です。次のようにご指導下さってます。

 

古い川柳に「神仏に手前勝手を申し上げ」とあるくらい、人はいつの時代も、神さまや仏さまに願いをかなえてほしいと祈ってきたようです。現に、私たちも「入学試験に合格しますように」「病気が治りますように」などの願いをこめて手を合わせ、神仏に祈ることが少なくありません。

かつて開祖さまは、「信仰というと、苦からの救われや願望成就を願って神仏に祈ることと考えられがちです」と述べたうえで、「神仏に祈るだけでなく、仏法すなわち真理に随順した生き方を目ざす」の信仰と明言しています。

仏法を信じて身につけ、自分が仏になる、自分が仏であることに気づく・・・。仏教の信仰はその方向にあるということです。そもそも、自分が仏であると気づけば、神仏やほかのだれかの力を恃み、「救っててください」と祈ることはなくなります。それが、自灯明・法灯明の教えに基づいて生きていく仏道というものであります。神仏への祈願を当たり前のように受けとめがちな私たちですが、仏教にしても神道にしても、信仰の本質は祈ることを必要としないところにあるということでしょう。少なくとも「手前勝手な」願いは真の祈りではないことになりそうです。

「祈り」とは、いのちの最も奥深くから催してくるものといわれます。祈るという文字には

「声をあげて神に福を求める」という意義もあるようです。ですから、とくに他の人から発せられる「苦しみから抜けだしたい」という声や思いをまごころで受けとめていくのは当然のことです。

一方で、私たちは祈願の先にある大事なことを、つねに忘れてはならないと思います。その大事なこととは、「生老病死は人生につきものである。だからこそいま生きていることの有り難さに気づいてほしい」という仏の願いです。

苦から抜け出したいと祈る人に、私たちはたとえば「法座に座ってみませんか」「祈願供養をしましょう」とお伝えし、ときには同じ悩みに苦しむ人のもとを一緒に訪ね歩いたりもします。それらはすべて、いま申しあげたこと、つまり仏の願いに気づくための、いわば方便です。本会の基本心行の一つである朝夕の読経供養も、その実践をとおしてつねに仏さまの心にふれ、自灯明・法灯明の教えを基本にして生きるための行法といえます。

お願い参りも祈りも、それら神仏と向きあう機会はすべて、仏さまが「大切なことに気づくように」と願って与えてくださった契機です。そのことをよくかみしめて、日々の暮らしのなかでともどもに信仰を深めてまいりましょう。