立正佼成会 奈良教会 > まほろば 奈良教会長コラム

まほろば 奈良教会長コラム

平成27年12月度実践目標

2015.12.1

仏のはたらき(久遠実成・真理)を信受し
布施・持戒の布教精進で、
“第二の矢を受けない”を確信する。
.
. 
今月の会長法話のテーマは
「第二の矢を受けない」です。
さて、早いもので、十二月を迎えました。
今月は、平成二十八年度の心を
つくらせて頂く大切な月と、
受けとめさせて頂きます。
会長先生は、次のようにご指導くださっています。
.
・慈悲に裏打ちされた自然な行為も、見方によっては
  戒律をないがしろにするものと映るのでしょう。
  毎日いろいろなできごとに遇い、
  喜怒哀楽さまざまな感情を抱きます。
  人間としてそれは当たり前のことで、
  そうした感情の一つ一つを釈尊は
 「第一の矢」といいます。
 ただ、私たちは心に抱いた感情のうち、
  自分の好ましいものは「もっと」「ずっと」
  と望み、執着します。
  逆に、、いやなものはさけて嫌い、
  そのときどきに起こる欲や自己中心の見方に
  よって自ら苦を生み、悩みを深めます。
 では、どうすれば苦楽の海に溺れることが
  ないのか~~その答えは、
  最初に抱いた感情にとらわれないこと、
  つまり「第二の矢」を受けないことだ、
  と釈尊はいうのです。
.
・個人的な話で恐縮ですが、以前、
  私は膀胱炎を患ったことがあります。
  その痛みは「もう二度とご免こうむる」
  と思わせるもので、少しでも気になると
  すぐに水分をとって炎症が起こらないように
  気をつけています。
 つまり、痛苦に懲りて注意深くなったわけですが、
  苦悩にも同じことがいえそうです。
  自分の感情にとらわれ、ふりまわされる苦しみを
  一度味わうと、そのような「第二の矢」は
  受けないようにしようと
  決意するのではないでしょうか。
/
・毎年の健康診断で、同じ項目を何度
  注意されても改善に務めなかった人が、
  たいへん痛い思いをして初めて健康の
  大切さを思い知るという話もあります。
  そうした点から見ても、懲りるというのは
 「第二の矢」を受けないための、
  いわば仏さまからのお諭しであり、
  こころの成長につながるステップと
  いえるかもしれません。
 しかし、できれば精神的にも肉体的にも
  痛い思いはしたくないものです。
  だからこそ、欲望や執着にふりまわされる
  という第二、第三の矢を受けないことが
  肝心なのです。
/
・禅の世界に「二念を継がない」
  という言葉があります。
  煩悩がわいても、それを追いかけて
  あれこれ思いをめぐらさない、
  心に浮かんだ思いを妄想でふくらませない
  ということですが、たとえば、
  おいしそうな食べものを見て、
 「食べたいな」と思っても、
  そこで止まるなら、けっして懐は痛まず、
  体に影響しないので苦は生じません。
/
・煩悩といい、苦悩といい、
  それらは自ら生みだしているものです。
  ですから、心をうまくコントロールできれば、
  よけいなことで思い煩わなくてすむのです。

平成27年11月度実践目標

2015.11.1

朝夕の読経供養の実践を心に、相手の長所を見ていく

布教伝道を心がけ、調和のとれた人間関係を築こう!

 

今月の会長法話のテーマは「軽んじない」です。

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

 

・法華経の常不軽菩薩品に、みなさんもよくご存じの「我汝を軽しめず」という一句があります。この言葉を私たちの日常に照らすと、人を「軽んじない」とは具体的にどのような姿勢や態度といえるのでしょうか。

 道元禅師が「悉有は仏性なり」と受けとられたように、私たちはもちろん、この世のすべては仏性そのものであると教えていただいています。私たちは、みな「仏の御いのち」であるというのです。なかには「自分のように至らない者が、仏性そのものとは思えない」とか「人を憎んだり、欲張ったりすることもある私が仏と同じなんて」と考える人がいるかもしれません。しかし、そのように自分を省みるのは、内からの催しともいうべきものがあるからです。じつは、それこそが仏性そのもののはたらきであり、おのおのが「仏の御いのち」

にほかならないことの証なのです。

 

・では、その気づきを生活の実践に結びつけ、人を「軽んじない」ために大切なのは何か。

親しい間柄でも「お前」などと呼んだりしないで、敬語を使い、ていねいに話す。できるだけ人の長所を見て、それを称える。もちろん、合掌・礼拝の精神を忘れない。こうしたことが、調和のとれた人間関係を築いていきます。最初は、心がともなわなくても、いつもかたちで示していると、それは自ずから心に影響をおよぼし、常不軽菩薩のように「つねに軽んじない」姿勢が自分のものになります。

ただ一方で、相手を尊ぶがゆえに厳しく接する、といったことがあるかもしれません。人の成長を願うそのような、目の前にいる相手を「仏の御いのち」と観ているかどうかを内省することが大切です。そうすれば、感情に走るとつい口にしがちなトゲのような言葉を放つこともなく、相手を傷つけないで、諭すべきことが冷静に伝えられるのではないでしょうか。

 このような言葉や態度は、いずれもみな私たち自身の精進にほかならないわけですが、ただ、それが機縁となって接した相手が自己の尊厳に気づく~そうした交流が、人間らしい心の交わりだと思うのです。

 とはいえ、相手を尊重しようと思えば思うほど、忍受しなければならないことが出てくるでしょう。幸い、私たちには朝夕の読経供養などで、心を見つめる機会があります。

合掌・礼拝に徹した常不軽菩薩に倣い、朝には「合掌・礼拝の心で一日をすごそう」と誓い、夕べには「私はきょう、人を軽んじなかっただろうか」と省みて、明日にむかう。

このような地道な実践が、平和な生活の基本であると私は思います。

平成27年10月度実践目標

2015.10.1


信仰の原点に立ち返り 仏の本願を我が願いとし
後ろ姿で 導き修行に務めましょう!


今月の会長法話のテーマは「信仰の こころ」です。
会長先生は、次のようにご指導くださっています。

:

・悩みや苦しみの多くは、自分の内に原因が
あるのです。ところが、そうした自己を
中心にして人やものごとを思いどおりに
しようとする意識を改めてみると、
環境や条件は変わらないのに、
それまでの悩みが嘘のように消え、
逆に喜びの種になることさえあります。
悩みをもたない動物や植物と同じく
天地自然の一部分である私たちは、
人間特有の我欲や人を恨む心などから
解放されれば、わだかまりがなくなり、
ありのままを受け入れることができ、
苦悩のない人生を歩むことができるのです。
このような意味の心の自由を追求し、
人間としていかに生きるかを教え導くのが宗教で、
それを実践していくのが信仰ではないでしょうか。

:
・先日、ある方から
「宗教や信仰に不信感を持っている方には、
どういう姿勢で仏さまの教えを
お伝えすればいいのでしょうか」
と尋ねられました。私は、
「ふだんどおりに接し、無理にお伝え
しなくてもいいのではないですか」
とお答えしたのですが、それは信仰が、
仏道の実践をとおして
仏心~慈悲の心~をいただき、自分が
「思いやりのある人間として生きる」
ことだからです。

:

ですから、助言を求められたら、
相手の心の安楽になるようなひとことを
伝えられるといいと思います。
苦悩のなかで、救いを求めずには
いられないときが、だれにもあると思います。
そのとき私たちは、心から相手を思い、
寄り添うことができればと思うのです。

:
・開祖さまの著述に、
「ほんとうの説法は自分の『後ろ姿で説く』
ことであるのを忘れないでほしい」
とありますが、確かに私たちは
自らの後ろ姿で法を説いています。
清掃の奉仕などにとりくむとき、それは、
宗教に不信感を抱く人の目にも
好意的な行いとして映るはずです。
なぜなら、それは思いやりの心を
社会に布施する実践といえるからです。
つねに後ろ姿で思いやりや布施の心を
発揮することが大切です。

:
・如来寿量品のつぎの一節は、
私たちをそうした信仰の原点に
立ち返らせてくれるものといえます。

:
「毎に自ら是の念を作す 
何を以てか衆生をして 無上道に入り 
速やかに仏身を成就することを得せしめんと」

:
~どうしたら多くの人を仏道に導けるだろう。
どうしたらみんなが仏の境地に達し、
幸せになるだろうかと、つねに念じている~
このように、仏の願いを自分の願いとして
歩むことを誓願しているのですから、人を思いやり、
素直で謙虚に日常生活を送ることこそ、
私たちにとって大切なことといえるのです。
そして、その生き方がまわりの人に受け入れられて、
はからずも人を仏道にお導きできたとしたら、
それは信仰の大きな功徳といえましょう。

:

平成27年9月度実践目標

2015.9.1

本尊のはたらき(三法印・縁起)を
体得できるまで思いやりの実践を徹底し、
一体感を味わおう!



今月の会長法話のテーマは
「私たちは 宇宙と一つ」です。
 会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・人間の体を構成するすべての物質は、
寿命の尽きた星が大爆発を起こしたときに
宇宙空間に飛び散った、
その星のかけらだといいます。
私たちは、いわば星のかけらで
できているというのです。

約百三十七億年前に起きたビッグバン
という現象が宇宙のはじまりといわれますが、
宇宙研究によってこれまでに
解明されたこうしたことを、
理論物理学者の佐治晴夫先生は
端的にこう述べておられます。

/ 
 「『すべては、ひとつのものから始まった』
ということでした。
そうであれば、すべては、ひとつのものから、
枝分かれして生じてきたということですから、
『すべては互いに関わりあっている』と
いうことが言えるでしょう」

/
このような知見にふれると、
私は釈尊が説かれた縁起の法を、
またあらためてはっきりと
理解させていただける思いがします。

.
中国の儒学者、陸象山が
「宇宙内の事はすなわち己が分内の事、
己が分内の事はすなわち宇宙内の事なり」
といったり、道元禅師が
「尽十方世界・自己の全身」
といった言葉を残していたりするのも、
宇宙と自己の関連を直観的に
見通していたからでしょう。
本尊のはたらき(三法印・縁起)を
体得できるまで思いやりの実践を徹底し、
一体感を味わおう!

 ・仏教には「一切衆生悉有仏性」
「草木国土悉皆成仏」
ともありますが、つきつめればこれも
「縁りて起こる」
「すべては関連している」
ということで、先の科学的な知見は
こうした釈尊の教えや先人の
言葉を裏づけるものです。

・宇宙ステーションから地球を
撮影した写真や動画を見ると、私は
「こんなに美しい星で、
なぜ人は争うのだろう」
という疑問がわいてきます。
人間だけでなく、 
すべての存在が関連していて
生まれてきたというのに、
その兄弟姉妹が
お互いに傷つけあい、
生命を奪いあう愚かさを省み、
それを抑止できないことに
対する慚愧の念にかられます。
とくに大事なことが、
つぎの一節にこめられています。

 「他は他であるがそれがそのまま
『己れ』として感ぜられ、
その喜びも悲しみも
『己れ』の喜び『己れ』の悲しみ」

「大宇宙にいかなることが有っても、
そのことごとくが、
自分自身の問題である」

こうした一体感を覚えると、
なんともいえない厳粛な感に
打たれずにはいられません。
 ・私たちは、宇宙と一つ、
真理と一つ、そして他も「己れ」。
この「一つ」ということ胸に刻み、
私たち一人ひとりが日々思いやりを
もって人と接するとき、
それは世界平和の種となり、
美しい地球の未来を創造する肥料と
なることでしょう。

平成27年8月度実践目標

2015.8.1

自分なりのテーマ・目標・目的を掲げ、
法により発想転換し
「いま・ここ」を感謝する生き方に!

今月の会長法話のテーマは、
「疲れない生き方」です。
夏、真っ盛りです。
この暑い夏を乗り切り、
元気に日々を過ごすために、
何を、どう心がけて実践すれば、
よいのでしょうか?
会長先生は、次のように
ご指導くださっています。

・世間ではいま、正規雇用で働く人も
パートやアルバイトで働く人も、
たいへん厳しい労働条件を
強いられるケースがふえていると聞きます。
身心とも過度に疲れては
仕事にも支障をきたす恐れがあり、
過酷な労働条件は改善されなければ
いけませんが、疲れやストレスも、
受けとめ方一つでそれらを
軽減することはできそうです。

・そこで、まず思い出すのは
「化城宝処の譬え」です。
貴重な宝(ほんとうの幸せ)を求めて
険しい道を進む一行のリーダー(仏)が、
途中で疲労し弱音を吐く仲間(衆生)に
まぼろしの城(化城)を見せ、
「あそこまで行けば楽になりますよ」
と励まします。目標を得た一行は
勇んで化城に向かい、そこで疲れを癒すと、
さらに先にある場所へ導かれるという、
法華経の有名な譬え話です。

・仕事にしても日常の用事にしても、
それをただ漫然とこなすのでは、
疲労感が残るだけかもしれません。
ところが、先のリーダーが目標を示したように、
仕事や用事に自分なりのテーマや、
目標・目的を掲げるとどうでしょうか。

「笑顔であいさつしよう」
「けっして文句はいうまい」
まず人さまの心で」など、
テーマをもって事に当たるとき、
その働きは自分を成長させるものになります。
目的があれば、仕事に喜びが生まれます。
テーマや目標・目的は、疲れやストレスを
エネルギーに変える力があるといえそうです。

・何よりも有り難いのは、
この世に生を享けたことで、
そこから生まれるのは感謝のみです。
もちろん、極度に疲れたときは
休息をとるのがいちばんですが、
そのとき大事なことが一つあります。
それは、考えても仕方のない
余計なこと考えない、ということです。

・釈尊は、森にすむ神から
「この森で暮らす行者たちは、
日に一食をとるだけで、
なぜあれほど顔色が明朗なのか」
と尋ねられたとき、
「彼らは、すぎ去ったことを思って悲しまず、
未来のことであくせくしない。
ただ『いま』のことだけで暮らして
いるから顔色が明朗なのです」
と答えられたそうです。

葛藤や思い煩いを離れ、
「いま・ここ」
を大事にすることが疲れない
生き方といえるのだと思います。

何ものにもとらわれず、いまを生きる。
そうして身も心も健康を保ち、
この暑い夏を乗り切りたいものです。

 

平成27年7月度実践目標

2015.7.1

お盆を機に、先祖への感謝を深め、

〝いま〟生きる喜び・真の幸せ 

        菩薩行で実感しよう

 

今月の会長法話のテーマは、
「先祖に感謝できる幸せ」です。


盂蘭盆会の月を迎えさせて頂きました。
仏さまの教えを どう実践することが、
ご先祖さまへの感謝となるのでしょうか


会長先生は、次のようにご指導くださっています。



・私たちは、日ごろから親孝行や先祖供養を
大切にしていますが、みなさんは
「先祖を供養できることが
  じつはこのうえなく幸せなこと」
という事実にお気づきでしょうか。


お盆を迎えると、私たちは盂蘭盆会を催し、
命をつないでくださった先祖に
感謝の誠を捧げ、先祖が喜んで
くださるような人生を歩もうと、
人格を磨くことを誓います。


・私たちはみな、両親を縁として
この世に生まれてきました。
そしてその親にも、そのまた親にも、
みなそれぞれ両親がいます。
見方を変えると、数限りない
先祖から命の「たすき」がつながれ、
いま私たちは連綿とつながる
命の最先端を走っているのです。


そうした自分の命の尊さをかみしめ、
生かされているいまに感謝する
 ─ それが先祖供養の基本的な
  意味あいだと思います。
「先祖のだれ一人が欠けても私は存在しない」
という命の奇跡を知る契機であればこそ、
先祖がほんとうに喜んでくださる
供養となるのです。


・私たちが日常、人から喜ばれる
行ないをすることも、広い意味での
先祖供養といえます。そして、
先祖が私たちにいちばん望んでいるのは、
家族が仲よくし、まわりの人たちと
調和して生きることですから、
日々の小さな務めをおろそかに
しないことは、先祖に対する
何よりの供養に違いありません。


・先祖供養とは、詰まるところ
自分の命の尊さをかみしめる機会と
いえますが、そのことによって
先祖への感謝の念が深まると、
私たちは自己のあり方や生き方を
真摯に見つめずにはいられなくなります。
その内省が一隅を照らす菩薩行の実践へと
結ばれるとき、私たちは生きる喜びと
真の幸せを味わうのです。


仏さまの教えの本質からすると、
これが先祖供養によって幸せになれると
されるゆえんではないでしょうか。
開祖さまが、親孝行、先祖供養、菩薩行を
一つにくくり、ご教導くださった
理由もここにあります。


・目の前の困っている人、
世界じゅうで苦しむ人のために
平和な世界を成就する
 ─ 「先祖」に対する、
これが、最大の供養です。
戦後七十年の今年は、そういう意味でも
命と平和の尊さをかみしめ、
一歩を踏みだしたいと思うのです。

平成27年6月度実践目標

2015.6.1

「南無」と 心に本仏を勧請し
  自ら求めて 法を学び めざめ 信仰の悦び味わおう!

今月の会長法話のテーマは、
「『南無』ということ」です。
後半の月を迎えさせて頂きました。
どのような心で実践させて頂くとよいのでしょうか?
会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・いま私たちが生きている現実の世界は仮のもの、
という意味の言葉に「世間虚仮」があります。
この言葉につづく対句が「唯物是真」、
つまり「ただ仏の世界だけが真実である」というのは、
みなさんもよくご存じだと思います。
これは、他と比べて優劣を評価する
錯覚の世界に生きる私たちも、
本来はみな等しく尊い存在であって、
大小・長短の比較などしなくて
よい世界に住んでいるのだ、
ということです

また、私たちの生命は有限に見えますが、
本来は無限であり、永遠のいのちなのです。
だから、この世を「仮」といい、
絶対や無限・永遠を本然とする世界を
「真実」というのです。
その「真実」に帰ることを本義とするのが
宗教であり信仰です。

・「南無」とは、帰依とか帰命を意味し、
「帰る」という字が使われています。
何に帰るのかといえば、「真実」に、です。
ですから「南無妙法蓮華經」は、
「法華経をとおして真実の世界にめざめ、
そのあるがままにおまかせします」
という表明であり、
また真実の世界に生きていることへの
感動を蘇らせる言葉でもあるのです。

その意味で、お題目をより端的に示せば
「南無真実」ということですが、
本来、宗教はみな、ただ一つの真実にめざめる
「南無真実」の立場だといえます。

・南無や帰依というからには、
「仏さまにすべてをおまかせします」
という強固な信心が必要と思うかもしれません。
法華経にもあるように、
幼子が砂で仏塔をつくるだけでも、
ただひと声「南無仏」と唱えるだけでも、
それは真実にめざめる機縁にほかなりません。

本会でも読経供養の際に三帰依文を唱えているように、
「南無」とは、
仏・法・僧への三宝帰依が基本になっています。
そして、ほぼすべての仏教に共通するこの意味あいを、
私は仏・法・僧の「法」を中心として、
つぎのように受けとっています。
「真実の世界を自覚した私は、
みんながめざめることを願い
仏の教えによってともどもに智慧を得つつ、
多くの人が真実にめざめて幸せを
味わっていただけるように歩みつづけます」

・自身の自覚を因として、
一人でも多くの人のめざめをと願い、歩む。
それが信仰をもつ悦びであります。

平成27年5月度実践目標

2015.5.1

  今月は、「青年の日」に学び
    布施の心で、目の前のことにベストを尽くす 菩薩行を!

 

 今月の会長法話のテーマは、「無名の人びとは国の宝」です。
若葉の緑がイキイキと目に止まり、青少年が大いに力を発揮する季節となりました。
 会長先生は、次のようにご指導下さっています。

・格差社会といわれる昨今、「落ちこぼれてはなるまい」と、人に抜きん出て出世したり成功したりすることが、多くの人の生きる目的になっているような風潮もあります。努力して、それが報われるのは大切なことです。ただ、華々しい活動とは無縁の、いわば無名の人が認められなかったり、企業の都合で辞めざるを得ない人を「負け組」と呼んだりする社会は、どこか間違っている気がします。
 経済のしくみからすれば、それはある意味で当然なのかもしれません。しかし、よく考えてみれば、国も地域社会も、目の前のなすべきことにコツコツととりくむ、多くの無名の人によって成り立っています。

・そう考えると、家事も含めて、働くうえでは、出世や成功にとらわれるよりも、もっと大事なことがありそうです。
 それは、拍子抜けするほどシンプルなことですが、「目の前のことにベストを尽くす」という姿勢だと思います。

・日本は、昔からすぐれた匠の技で世界に知られています。戦後はとくに、あらゆる分野でそれぞれが技術の向上に務め、その結果、国全体が成長・発展してきたといえます。有名になりたいとか、高収入を得たいとかという動機だけで、厳しい修業や研究の道を歩みつづけられるとは思えません。何よりも「人の役に立ててうれしい」という喜びが、日々を支える力となり、たとえ生活は質素でも、自信と誇りをもって生きる「張り」や「生きがい」につながっているのです。「人の役に立ててうれしい」という思いは、「布施の心」(人に施しめぐむこころ)がその原点にあるといえます。自分の持っているものを与えることで、人さまが喜んでくださり、それが自分の喜びとなる。いつでも自信と誇りをもって生きられます。

・しかし、固定観念や自我に縛られていると、そのことに気づくことができません。その縛りを解き、持ち前の価値を発揮させるのが、「傍を楽にしよう」「人さまのために尽くそう」
という布施の心なのです。
布施に生きる無名の一人ひとりこそ、家庭から国家に至るすべての場で、真に有力な人といえるのです。

平成27年4月度実践目標

2015.4.1


 降誕会に私たちの『いのち』を見つめ直し、 


                ともに智慧の心を起こさしめる法座修行を! 


 


今月の会長法話のテーマは、未熟を自覚するです。 


さわやかな桜の季節となりました。幸せの基に気づく布教伝道とは? 会長先生は、次のようにご指導くださっています。 


・無量義經に、愚痴多き者には、智慧の心を起こさしめという一節があります。愚痴とは、未熟なために自分の見識や欲望にとらわれる愚かさのことですが、それが智慧の心によって無限の可能性を開く扉になるというのです。 


 未熟さや愚かさは、それを自覚すれば、いつでも向上のきっかけになります。ところが、わかっているという思い上がり・憍慢によって、私たちはみずから向上の芽を摘んでしまいがちなのです。 


 そうならないための智慧の心」とは何かといえば、それは「生かされている」という人間としての本然の気づきだと思います。それをとおして謙虚に、素直になるとき、あらゆる可能性の扉が開かれるのです。 


・親鸞上人は愚禿と称し、良寛禅師は大愚というなど、祖師や名僧のなかには、みずから私は愚かだと名のった人が少なからずいます。これも私ほど未熟で愚かな者はいないとつねに自分に言い聞かせて、驕りや目先の欲に傾く心を戒めたのでしょう。宗教の世界は、自己の内面を深く見つめていくものだからです。 


・一見、否定的とも思える未熟さや愚かさの自覚ですが、私たちの向上や成熟を助ける飛躍台となる、大切なことなのです。さらにその自覚は、生かされているという智慧とも相まって、人に対するやさしさや思いやりにつながり、そうして人と相和して暮らすことがほんとうの幸せの基にもなるのです。 


・伝教大師最澄は、若いころの著述で私は愚者のなかの最も愚かなる者といっています。この自覚から次のような大きな志を打ち立てます。 


「私は仏に誓います。悟りによって得られた美味も、安楽の果実も、けっして独りでは味わいません。真理の世界に生きるすべての人とともに悟りの境地に至り、真理の世界に生きるすべての人とともに、悟りの妙味を楽しみたい」このことを端的にあらわすのが、「忘己利他」~己を忘れて他を利する~という教えです。 


・私たちは、愚かさを内に抱えながらそのままに、まさに「いのちいっぱい」生きるとき、大きな花が開くのだと思います。

平成27年3月度実践目標

2015.3.1

「いまが青春」の気概をもって、
一人でも多くの幸せを願う創立の精神を胸に精進いたしましょう。
 .
今月の会長法話のテーマは、『季節の行事に親しむ』です。

三月五日は、立正佼成会の創立七十七周年記念日です。
今月は、本会が創立された精神をしっかり心に刻み、
会員としての自覚と誇りをかみしめ、
布教してまいりたいと思います。
どのような心で精進させて頂ければ、良いのでしょうか?

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・春、三月の行事といえば、ひなまつりに卒業式、お彼岸、春分の日、
そして本会では三月五日が創立記念日に当たります。

では、たとえば春分の日を私たちはどのようにすごしているかというと、
多くの人が国民の祝日の一つと受けとめ、
いつもの休日と変わりなくすごしているのではないかと思います。

この日は、「自然をたたえ、生物を慈しむ日」とありますが、
こうした意義をかみしめて、すごしている人は、あまり見受けられません。

私たちの生活、そして人生は、無常迅速といわれるように、
時々刻々と変化しています。

・そうしたなかで、私たちがうっかり見過ごしていることに気づかせ、
マンネリから抜けだすきっかけとなり、弾みとなるのが、
季節の行事や国民の祝日だと思うのです。
先の春分の日であれば、その意義や由来を知ることで国の文化や伝統を再認識し、
あらためて母国に誇りや愛着を覚える人もいることでしょう。
また、「いよいよ春の到来。自然を愛し、素朴に生きよう」
と心に弾みがつき、前に進む力がわく人がいるかもしれません。

こうしてかみしめ、味わうと、何気ない休日が、
大きな気づきや成長につながる貴重な一日となります。

・仏教者には、目にした自然の営みをとおして無常を観じ、
そこにあるがままの生き方を受けとめて詠んだ和歌や俳句が知られています。
道元禅師は、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と、
端的に自然美とこの世の実相を示されています。

このような詩歌にふれると、季節ごとの行事や四季折々の風物は、
すべての人と自然が織りなす「いのち」の営みとわかります。
つまり行事を楽しんだり自然を愛でたりするのは、
そこに息づく「いのち」を味わい、慈しむことであり、それはまた、
風物や行事をとおして説かれる神仏の声を聴かせていただくことでもあるのです。