まほろば 奈良教会長コラム

平成29年7月度実践目標

2017.7.1

相手の幸せを願う「手どり」こそ 最高の菩薩行と自覚して!

 

 盂蘭盆会の月を迎え、今月の会長先生のテーマは、相手を認め、讃える」です。

次のようにご指導下さっています。

 

 人のすぐれているところをほめることを、一般に讃えるといいます。

では、その「すぐれているところ」とは、何を基準にしてそういえるものなのでしょうか。

ふつう私たちは、成績がいいとか、仕事が早いとか、性格がいいとか、運動に長けているといった長所を指して「すぐれている」といい、その人を認め、讃えます。

 ところが釈尊は、自分の生命を奪おうとした提婆達多を「善知識」と讃え、殺人鬼と恐れられたアングリマーラの再生を信じ認めて、弟子の一人に加えたといわれます。世間の常識とは異なる見方かもしれませんが、ここには、人を認め、讃えるときの大切な着眼点が示されています。一般でいう「賛嘆」は「深く感心してほめること」を意味します。いっぽう仏教でいう「讃歎は、仏・菩薩の徳をほめ讃えることと教えています。そのことに照らせば、釈尊がどれほど罪深い人に対しても讃えることを忘れなかったのは、相手に仏・菩薩の徳の輝きを見ていたからにほかなりません。

 人を評価し判断するうえで、その人の行動や言葉や性格は無視できないものです。しかし、そのことにとらわれると、もともと讃えるに値する仏性という大切な視点を忘れてしまいがちなのです。仏法を学ぶ私たちにとって、人を認め、讃えるとは、相手のいのちを讃歎することではないでしょうか。

ただ実際は、なかなかそこまでは気づけません。それでも、たとえば親が子を見るとき、上司が部下を評価するとき、あるいは友だちとふれあうときに、相手のすぐれたところ見る心がけとともに、私たちはお互いさま、本来、仏・菩薩の徳を本具するいのちであるということを忘れてはならないと思います。

相手をほめるというのは、自分の心を開くことです。人を認めて讃えることも、じつは人のためではなく、自分を磨く実践の一つといえるかもしれません。

昭和四十年のことだったでしょうか。私が当時、さまざまな葛藤を抱えたまま、初めて断食に臨んだときのことです。断食道場で八日間の断食と漸減・漸増食の期間を終え、帰宅してお風呂に入っていたところ、突然、父・開祖さまがお風呂に入ってきたのです。さらに背中を流してやろうといって、体重が落ちた息子の背中を流しながら、背中にツヤが出てきたなと、ほめ言葉ともいえないようなひと声をかけてくれました。

 ごくありふれた、親子の裸のつきあいだったのですが、私ども親子にとって、めったにないできごとでした。その経験から、相手を認め、讃えることについて、何が大切なのかが少しわかる気がします。けっしてノウハウや上手な言葉ではなく、自他のいのちの尊重と、相手の成長を心から願う気持ちに尽きるように思うのです。