立正佼成会 奈良教会 > まほろば 奈良教会長コラム

まほろば 奈良教会長コラム

平成三十年八月度実践目標

2018.8.1

 

 二つの心(仏性)が、いつも向かいあって

         「坐っている」ことを 忘れない!

 

夏本番、青少年育成月間の月に斉家を基本にして、家庭・社会・国家・世界の平和境目指して平和祈願の月の実践してまいりたいと思います。

会長先生のテーマは「敬う心 と 恥じる心」です。次のようにご指導下さってます。

 

今月は「八正道」の「正行」について考えてみましょう。

「正行」は、仏教の辞典で「正業(正しい行ない)」とも示され、「身・口・意の三業」といわれるうちの、「身の行ない」(身業)における正しいあり方のことです。ちなみに本誌

の六、七月号でお伝えした「正思」と「正語」も、それぞれ三業の一つである、心による行為(意業)と、言葉による行為(口業)の正しいあり方ということになります。

それでは、正しい身の行ないとはどういうことでしょうか。解説書には、不殺生、不偸盗、不邪淫の三つ、すなわち「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪な男女関係を結ばない」ことが、正しい身の行ないとあります。

釈尊は、私たちがこの世で味わう苦から解放される道を悟られた方ですが、何が苦悩の原因となるのかを見極められたうえで、これらを示されたのでしょう。その意味では、戒めというよりも、私たちが日々を明るく、楽しく生きるための助言と受けとめるほうが自然に思えます。「このことを忘れなければ家庭も社会も平和で、楽に生きられますよ」という、釈尊からの温かなアドバイスということです。

 

「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪な男女関係を結ばない」ことが正しい身の行ない~~確かに、それは正しいに違いなく、殺生や盗みは法律にふれる対象でもあります。それでも、「してはならない」という禁止事項が「正しい行ない」といわれると、心理的に「正行」のハードルが高く感じられます。そうであれば、「戒律を守らなければならない」と意識する以前に、いつでも自然に、「苦悩しないですむような行ない(正行)をせずにはいられない」ようになればいいのです。

そこでキーワードになるのは、敬う心と恥じる心です。

敬う心と恥じる心は、進歩・向上を求める人間の本能に通じるともいわれます。すると、つい我を忘れて道を踏みはずしそうになる私たちを、本来の人間らしい生き方に立ち戻らせるのも、この二つの心といえましょう。「正しい行ない」とは、「敬と恥」の二つに支えられたふるまいということができそうですが、その心と行ないは、日ごろの人間関係から国家の関係に至るまで、そこに和を築く大切なものです。それは、道を見失いがちなあらゆる場面でいま、大きな力を発揮するものだとも思うのです。

 

平成三十年七月度実践目標

2018.7.1

信じて尋ね、信じて言い切る言葉こそ 真実の慈悲!

 

盂蘭盆会の月を迎えました。

利供養・敬供養・行供養を通し、ご先祖さまに真心からの回向させて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは「和らぎをもたらす言葉」です。次のようにご指導下さってます。

 

釈尊の基本的な教えである「八正道」の一つに「正語」があります。真理にかなう言葉を語るということですが、私たちはふだん、そのように「正しく語る」ことを、ほとんど意識していないのではないでしょうか。「正語」を実践するうえで大事なのは、何をどう話すかということよりも、正直に生きる誠実さを忘れないことなのかもしれません。

言葉の内容ではなく、対話する相手と向きあう姿勢ということで思い起こすのは、ノーベル平和賞の選考委員も務められた、ノルウェー国教会オスロ名誉司教のグナール・スタルセット師(第三十回庭野平和賞受賞者)です。スタルセット師は、国際会議の席で意見が分かれるようなときでも、その場をじつにうまくまとめていかれます。とはいえ、師が饒舌なのではありません。むしろ、寡黙なかたです。さまざまな声にじっくりと耳を傾け、求められれば穏やかに見解を述べつつ、最後に「では、このようにしてはどうでしょうか」と、みなさんに諮るのです。

立場の違う人が集まる席では、議論が紛糾することもあります。そこに調和をもたらすのは、人の意見をよく聞いて思いを酌みとる姿勢と、自我を抑えた公平な態度から発せられる言葉だということでしょう。師の示すこの姿勢には「正語」の意味あいの核心が示されていると思うのです。

 

日本語で、漢字の「愛」は「かなし」といいます。愛する、慈しむということは、悲しむということであります。母親がわが子を愛おしむ心、といえばわかりやすいかもしれません。

「正語」、すなわち「正しく語る」ということのなかには、そうした慈しみ、悲しむ心と、相手の幸せを念ずる情が籠められているのではないでしょうか。

「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」とは道元禅師の言葉ですが、スタルセット師の言葉には、宗教者に共通する慈愛の念が籠められており、だからこそだれにも受け入れられるのだと思います。そういえば、良寛さんが放蕩三昧の甥を改心させたのは、説諭の言葉でも叱責でもなく、甥を思って流したひと筋の涙でした。慈愛に満ちた沈黙によって伝わる「正語」もあるということです。

私たちの幸せをだれよりも念じてくださる両親やご先祖の愛心を、まもなく開花を迎える清らかな蓮華を愛でながら、この盂蘭盆の時期にあらためてかみしめてみるのもいいのではないでしょうか。

平成三十年六月度実践目標

2018.6.1

どこまでも、一切衆生悉有仏性と惜しみなく出逢い

           心の枠を広げる実践に!

 

教団創立八十周年の後半の月を迎えました。

地域の人々と共に、我々が菩薩を育てる苗代となれるよう役割を果たしてまいりたいと

思います。会長先生のテーマは「踏みとどまる」です。次のようにご指導下さってます。

 

現存する経典のなかで最も古いものの一つとされる法句経に、「走る車をおさえるように、むらむらと起る怒りをおさえる人 ─ かれをわれは〈御者〉とよぶ」(中村元訳〳岩波文庫)という一節があります。ここで釈尊は、怒りをコントロールすることの大切さをお諭しくださっています。しかし、そう教えられても心にブレーキをかけるのは難しく、それは何も怒りの衝動だけに限りません。いわなくていいことを口にしたり、誘惑に負けて買わなくてもいいものを買ったり道を踏みはずしたり、そのことがもとで人と争ったりする私たちなのです。

では、怒りや欲、自己中心の考えに流されそうになったとき、どうすれば踏みとどまることができるでしょうか。私は、とりあえず「ひと呼吸おく」ことをおすすめします。

一度、深呼吸をするだけで少し心が鎮まります。できれば、ひと晩おいて冷静に考えるのも大切なことでしょう。また、信仰をもつ人であれば、心に貪・瞋・痴の黒い雲がわきかけたら、「仏さまはどうお考えになるだろう」「どうなさるだろう」と思いをめぐらせば、冷静さをとり戻せると思います。なかには、神仏のような姿の見えない存在ではなく、「親父ならどうするだろう」「母なら・・・」と、直接ご縁のあった身近なお手本を思い浮かべ、怒りや欲やわがままな気持ちを落ち着かせる人もいることでしょう。

「八正道」の二つめにあげられる「正思」は、「貪・瞋・痴を離れ、仏さまのような大きな心で考える」ということです。

そこで、少し見方を変えて「正思」の内容を吟味し、理解を深めてみてはどうでしょう。欲ばる心、怒りの心、他を蔑ろにする心のないのが「正思=正しく考える」ということですが、それは「分けあう心」「あたたかく接する心」「いたわる心」で考える、と言い換えることができます。そして、それをひとことでいえば「思いやり」にほかなりません。つまり、ここでいう「正しく」とは、「思いやりの心で」ということになります。以前、「黙して太陽の如く、清風の如く、柱の如く、石の如く」という言葉をご紹介しました。人とのトラブルなどで激しい感情にふり回されそうなときほど、この言葉のように静かに大自然のありようを想い、心の枠を広げてみましょう。

天地自然と私たちが一つであるように、目の前の人とも一つなのだ ─ そうした気づきによって、私たちは自らの心の〈御者〉になれます。仏さまのような大きな心で、

感謝の人生を歩むことができるのです。

平成三十年五月度実践目標

2018.5.1

真理にあった、調和のとれた、目的にあった

                見方(観方)を実践!

 

青年の日を迎える月です。第三日曜日に、総力を結集して社会変革の風を起こすべく、「青年の日」を意識し、今月は青少年と一体となって布教に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは「楽しく生きる」です。次のようにご指導下さってます。

 

少し前の話になりますが、今年の一月から二月にかけて、日本では全国的にまれにみる大雪となりました。本会の年中行事である「寒中読誦修行」(寒修行)の期間も雪が降って、道場に足を運べない方も数多くいたようです。そうしたなか、東京でも交通機関が停滞するほどの降雪でしたが、そのとき、大聖堂でこんな声を聞いた人がいます。

「人がせっかく寒修行をしているのに、どうしてこんなに雪が降るんだ!」。早朝に家を出て、自動車やバス、電車で参拝する人にとって雪は困りものですから、グチが出るのも当然かもしれません。一方で、ある人はつぎのような声を耳にしています。

「雪のおかげで、ほんとうに寒修行らしい修行をさせていただけて、ありがたい!」

さて、みなさんは、どちらの見方をする人が、楽しく生きられると思いますか。私は、後者に軍配が上がると思います。けっして、むずかしいことをいっているわけではありません。ただ、天地自然の変化を素直に見て、それをありのまま受けとめているところがすばらしい。しかも、素直に受けとめているだけなのに、自分にもまわりの人にも、寒さや眠気を吹き飛ばすように感じさせるのはなぜなのでしょう。それは、ものごとを「正見」で見るか、どうか、その違いだと思うのです。

 

仏教で説く「八正道」の「正見」は、「正しい」という言葉の語感から、容易にはできないこと、悟った人だけが会得できることのように思いがちです。先の雪の日の例のように、天地自然のはたらきを素直に見る─それが「正見」ではないでしょうか。

「正見」はまた、邪な見方や偏った見方、つまり自己中心の見方で見ると、不平や不満、あるいは怒りを覚えることも、大らかに受けとめることで、その結果、気持ちが楽になる見方ともいえます。

また最近、心臓の手術を終えて退院された方が、「これまでは、心臓が動いていることに感謝したことなどありませんでした。でも、それは当たり前ではなかったんですね」と、しみじみ話してくれました。「ああ、これが正見なのだな」と、そのとき私は教えられた思いがしました。「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」という、この世の真理に照らしてものごとを見る。それが、「苦を滅する正しい道」として教えられる「八正道」の、最初に説かれる「正見」です。それは、仏さまの教えに則って生きる基本であり、またすべてということができるかもしれません。

平成三十年四月度実践目標

2018.4.1

吉野の清九郎妙好人・中宮寺菩薩半跏像に倣い

    目の前のいのちに合掌礼拝を!

 

降誕会の月を迎えさせて頂きました。降誕会に私たちの“いのち”を見つめ直し、自他の“いのち”を生かすべく仏性礼拝行に徹して布教伝道に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは「円満な人になる」です。次のようにご指導下さってます。

 

ある職場に、朝のあいさつをとてもていねいにする人がいたそうです。しっかりと相手の顔を見て、「おはようございます」といいながら、頭をゆっくり下げる。それだけのことなのですが、慌ただしい朝の空気のなかで、ていねいすぎるその姿勢を煩わしく思う同僚もいたといいます。ところが、しばらくすると職場の雰囲気が変わってきました。それまで、すれ違いざまに「おはよう」と言い交わしていた人たちも、それぞれが相手としっかり向きあってあいさつをするようになり、やがて職場の空気が和らいできたというのです。

円満とは、人格が「十分に満ち足りて、欠点や不足のないこと」です。ですから「円満な人になる」といえば、いわば人間の理想に近づくことで、仏教徒にとっては仏さまのような人になることを意味します。しかし、だからといって遠い目標ということではないと思います。人に安心や満足を与え、そのことをとおして、相手に「人と仲よくしたい」という気持ちを発さしめたり、その場に調和をもたらしたりするのが仏・菩薩のはたらきと受けとめれば、朝のあいさつ一つで人の心を動かし、職場に和らぎをもたらした人は、まさに円満な人そのものです。足りないところの多い私たちですが、だれもがみな、仏性を具えていることの証ともいえましょう。そしてこの春、新たな出会いを円満な人間関係にする決め手も、あいさつをとおして相手の仏性を拝むことにあるといえるかもしれません。

 

人間の本質が仏性であり、人格円満であることを示す話は、ほかにも数多く見られます。

江戸時代、現在の奈良県吉野に暮らした清九郎という妙好人(浄土真宗の篤信者)は、留守宅にあったお金を盗まれたとき、こういったそうです。「私のような者の家に盗みに入るその方は、よほど困っていたのでしょう。たまたまわが家にお金があったのでその人も得るものがあり、うれしく思います」と。そして、「私はいま、仏の慈悲に導かれて“盗まれる身”にさせてもらい、これほどうれしいことはありません」と語ったというのです。

評論家の亀井勝一郎さんは、柔和な微笑みで知られる奈良・中宮寺の菩薩半跏像の、その口もとに湛えた笑みを、嘆きや悲しみによってこみあげる「慟哭と一つなのかもしれない」と綴っています。菩薩の心の奥には七転八倒の苦悩があり、言葉に尽くせない思いがあるというのです。

「悲智円満」という言葉があります。釈尊も、そして私たちも、慈悲と智慧をあますことなく発揮するために、この世に願って生まれてきたといわれています。

平成三十年三月度実践目標

2018.3.1

地域のオアシスとなって

    会員綱領の如く、法(一乗)の光を届けよう!

 

創立八十周年の月を迎えさせて頂きました。創立の意義を深く認識し、新たな決意で精進することをお誓いしたいと思います。

会長先生のテーマは「地域の人びとと共に、幸せに」です。次のようにご指導下さってます。

 

多くの方のおかげさまで、本会は今年、創立八十周年を迎えました。まだまだ浅い歴史ではありますが、そのなかで、いまから三十年前に、開祖さまは本誌でつぎのように述べています。「究極の目標は世界人類の救済にあろうとも、あくまでも身辺のことをおろそかにせず、まず目の前の一人を救い、おのれの家庭を調え、地域社会の浄土化へ進むという、着実な歩みも忘れてはならない」(昭和六十三年・三月号)

創立五十周年の年に示されたこの決意を、私は、節目の年を迎えて新たな一歩を踏みだそうとするいま、あらためてかみしめています。以前、私は「(地域の)みんなが幸せになることによって、私たち佼成会会員の幸せもある」と申しました。「地域社会の浄土化」とは、そこに住む一人ひとりが、自分の幸せだけでなく、地域の安寧やみんなの幸せという、いわば公のことに意識を向けながら、生活の一つ一つをおろそかにしないで明るい家庭を築いているということです。現実社会という娑婆も、こうして常寂光土となるのです。もし暗い表情をして沈んでいる人がいたら、その心に一灯を点じて笑顔をとり戻し、地域全体を明るく照らしていくのが信仰をもつ私たちの精進であり、役割だと思うのです。

夕暮れの街を数時間、高台から撮影した映像を見たことがあります。日が落ちるにつれて一軒、また一軒と灯りがともり、やがて街全体が夕闇の底に明るく浮かび上がってくるのですが、地域に幸せが広がるというのは、もしかすると、この光景のようなものかもしれません。窓から明るい灯がこぼれ、凍てつく夜も家のなかは笑顔とぬくもりにあふれている─

そういう、だれもが帰りたくなるようなあたたかな家庭が、一軒ずつふえていくイメージです。そして、その最初の一軒は、みなさんのご家庭です。家族がみんな仲よく、それぞれが敬いと親愛で結ばれて、心安らいでいる。“わが家”をそういう家庭にすることが、地域全体の幸せの始発点になるのです。

また本会には、各地域に教会道場があります。信者のみなさんにとってのオアシスであるばかりでなく、どなたにとっても身心が休まる場所であることが望まれます。ただ、それには私たちが率先して地域にはたらきかけることが大切です。「出入口」という言葉が示すように、まずこちらから一歩を踏みださなければ、入ってきてはいただけないのです。そのことを踏まえ、ぜひ地域のみなさんと一つになって、街全体をオアシスのようにしていただきたいと思います.。家庭の幸せを始発点として、地域のみんなが仲良く過ごすことは、大きな平和への一歩でもあるのです。

平成三十年二月度実践目標

2018.2.1

心を磨く「ご法の習学」で 真理の自覚を!

 

涅槃会の月を迎えました。お釈迦さまのみ跡を慕って、人さまに尽くす精進をお誓いしたいと思います。

今月の会長先生のテーマは、「人生を厳粛なものに」です。次のようにご指導下さってます。

 

「人生を厳粛なものに」というテーマですが、そもそも一人ひとりの一生は、「生まれる・老いる・病む・死ぬ」のどこをとってみても厳粛以外の何ものでもありません。意識していないだけで、私たちはみな厳粛な人生を歩んでいるのです。そうすると、そのことを明らかに知る、真理を自覚して生きることが、人生を厳粛なものにする鍵といえそうです。

ただ「厳粛」を辞書で引くと「おごそかで心が引き締まるさま」とあり、そうした気持ちを常にもちつづけるとなると、堅苦しくて「とてもそのようには生きられない」という気がしてしまいます。だからでしょうか、ある方はきわめてわかりやすく「厳粛とは、無常観に立って、いまを大切に生きること」といわれています。一日を、一時間を、そしていま目の前の一分一秒をおろそかにしないで、ていねいに暮らすことが大切なのです。

そのように捉えると心に余裕が生まれますから、気持ちもゆったりと落ち着いて穏やかになり、まわりの人とも仲よく、楽しくすごせます。そういう時間の積み重ねが、幸せで、かつ厳粛な人生といえるのでしょう。

たくさんのすぐれた仏教詩を残した教育者の東井義雄先生が、小学校の校長をされていたとき、ある教室に次のような言葉が掲げられていたそうです。

「ずいぶん 寒くなったが/いつまでも 寝床の中で/グズグズしていないで/心のスイッチをポンと押して/パッととび起きようではないか/ポンとスイッチを押すと/パッとあかりがともるように/朝起きも ポン・パで行こう」

(『東井義雄「いのち」の教え』佼成出版社刊)

いまはちょうど一年でいちばん寒い時期ですから、みなさんにも思い当たるふしがあるのではないかと思いますが、この「ポン・パ」は、いろいろなシーンで活用できそうです。それぞれが苦手とすることに当てはめてみてもいいですし、日常生活のなかで真理を自覚することについても、この「心のスイッチ」は役に立つように思います。「ありがとう」という感謝の言葉も、私たちが「いま・ここに存在する」という厳粛な事実から生まれた「有り難い」を語源とするものであり、真理をかみしめるための「心のスイッチ」にはうってつけといえるでしょう。こうした習慣が身につけば、ことさら意識しなくても、私たちの日常は自然に厳粛なものになっていきます。

入滅される前、釈尊は「すべては移ろいゆく。怠ることなく精進しなさい」といい残されました。涅槃会には、ご自身の死に際して、あらためて無常の法を説き、精進を促された釈尊のお心に思いを寄せてまいりたいと思います。

平成三十年一月度実践目標

2018.1.1

平成三十年一月度実践目標

日々、「本日ただいま誕生!」と

自灯明・法灯明の人生を歩む

 

新たな年を迎えさせていただきました。お互いさまに一年の目標立て、幸せと平和を祈り、精進をお誓いしたいと思います。

今月の会長先生のテーマは、「明るく、朗らかに」です。次のようにご指導下さっています。

 

元日の朝を「元旦」といいますが、ご承知のように地平線から太陽があらわれ出た姿をかたどった文字です。元朝の日の清清しい輝きを受けて、新年を迎えた私たちの身心はいきいきと発動し、一年が始まります。

さて、そうしてはじまる一年を、みなさんはどのように歩んでいきたいと願っているでしょうか。それぞれに思うところ、期するものがあると思いますが、だれにも共通するのは、一年をとおして明るく、朗らかにすごしたいという願いでしょう。

仏教では、自灯明と教えています。

自灯明は「自らを灯として生きる」ということですが、それは「何にも左右されない確固たる生き方の芯がある」ということです。そしてその「芯」となるのは、自分を含むすべての人が、かけがえのない命を、いま・ここに・自ら生きているという揺るぎない「信念」で、いま命あることへの「感謝」が、芯を明るく灯しつづけるのに必要な「油」といえるのではないでしょうか。

 

「足無し禅師」と呼ばれた禅僧がおられます。昭和二十年、二十五歳のときに朝鮮半島で敗戦を迎え、抑留先のシベリアで両足に凍傷を負って両膝から下を切断した方です。不自由な体で日本に帰るまでの艱難辛苦と、二十六歳で帰国してからの苦悩は、私たちの想像を絶するものだと思います。ところが二十七歳のとき、その方、小沢道雄師は「ひらめきに似た

心の光」を得たといいます。「そうか、人と比べるから苦しむのだ」~~そして師は、思いを定めるのです。

「比べる心のもとは二十七年前に生まれたということだ。二十七年前に生まれたことはやめにして、両足を切断したまま、きょう生まれたことにしよう。きょう生まれた者には一切がまっさらなのだ。本日ただいま誕生だ!」その日以来、「本日ただいま誕生」の言葉を胸に、

「いつもにこやかにしていよう」「ありがとうと、必ず感謝しよう」を心がけて、温顔の

仏道人生を歩まれたということです。

明るく、朗らかに生きるというとき、陽気な性格や環境に恵まれていても、いなくても、要は何を心の芯に据えるかが大事で、私たち仏教徒にとっては、それが仏法(ご法)であることを、この小沢師が明快に示してくださっているのではないでしょうか。

そしてこれが、法を灯として生きる~~法灯明でありましょう。

平成二十九年十二月度実践目標

2017.12.1

平成二十九年十二月度実践目標

本会の基本信行の実践で

自分中心から相手中心の心に転換を!

 

十二月を一年のスタートとする本会は、創立八十周年を迎えさせて頂きました。

成道会の月に、しっかりと菩薩道実践の喜び(悦び)を味わってまいりたいと思います。

今月の会長先生のテーマは、「『型』を身につける」です。次のようにご指導下さっています。

 

柔道や剣道などのスポーツ、また芸術や芸能の道で、手本となる体勢や動作のことを「型」といいます。ただ、そのような世界に限らず、私たちの日常生活における身近な所作にも「型」というものがある、と私は受けとめています。ちなみに「所作」とは、仏教で「身と言葉と心の三つのはたらきの現われ」をさします。つまり私たちは、行ないや言葉をとおしてなんらかの心を表現しているわけです。では、その心とは何か。どのような心を「型」として身につけることが大切なのか─結論を先にいえば、思いやりや慈しみの心にほかなりません。思いやりや慈しみを体現し、それを「型」として日々実践することによって、私たちは慈悲の心をさらに深く胸に刻みつけていくのです。「型」を身につけていれば、たとえ少々、心が乱れても、すぐに思いやりや慈しみの心に立ち返れます。その意味では「型」は「方便」ともいえますが、しかしそれは即、思いやりや慈しみという「真実」に直結するものです。

思いやりや慈悲の心が、日常生活での「型」の根底をなすとすると、その現われとしての所作・行ないに「これでなければならない」といった決まりはなさそうです。仏教に「一即多・多即一」という言葉がありますが、根底となる思いや願いを忘れないことが肝心なのです。その意味では、仮に個性の数だけ「型」があるとしても、自分勝手な「型」は、「型」とはいいません。むしろ、「自分の思いどおりにしたい」というわがままな心を抑えるために「型」があるといえるのです。

家族でも知りあいでも、何かのはずみで、顔も見たくない、口もききたくないというときがあると思います。その気持ちのまま朝、行き合ったならば、つっけんどんな態度をしてお互いに不愉快になります。ところが、合掌・礼拝や「おはよう」のあいさつを「型」として身につけていると、「顔も見たくない」という「我」が、その「型」によってとり払われて、自然に「無我」の状態になれます。そのあいさつが調和をとり戻す一歩となり、またあいさつをした人の心は、しないよりもずっと穏やかであるはずです。「型どおり」と聞くと、変化や工夫がないように思いますが、「型」に従って「そのようにしなさい」と、いわば問答無用で実践する機会は、自分の都合を大切にしがちな私たちが、無理なく「無我」になれる瞬間でもあるのです。

本会の法座や読経供養、あるいは「まず人さま」の実践も、それをつづければ仏さまのような慈しみ深い人になれるという「幸せの方程式」として、本会の歴史を支えてきた大切な「型」であると思います。

平成二十九年十一月度実践目標

2017.11.1

平成二十九年十一月度実践目標

いのちの根源にはたらく 絶対の力を信受し、

今できる、懺悔と感謝を伝える菩薩行を!

 

開祖さま生誕会の月です。開祖さまのご生誕をお祝いするとともに、開祖さまへの報恩感謝と誓願をお誓いしたいと思います。

今月の会長先生のテーマは、「親孝行と菩薩行」です。次のようにご指導下さっています。

 

両親を敬い、父母によく仕えることを「孝を行なう」と書いて「孝行」といいます。そして、「孝行のしたい時分に親はなし」のことわざが示すように、親孝行は両親が存命のうちに、と考えるのが一般的です。しかし、多くの人の場合、両親が元気なうちに孝を尽くすことが、なかなかできません。気恥ずかしさもあるでしょうし、心のどこかに「ずっと元気でいてくれるはず」という願いにも似た思いがあるからかもしれません。それで、亡くなって初めて親の恩の大きさを痛感し、生前の親不孝を悔やむ人が少なくないのです。

ただ、私は親孝行をするのに、けっして手遅れということはないと思うのです。暮らしの一つ一つに、ていねいにとりくむ。日々を明るく、楽しくすごす。人に喜ばれるようなことを誠実に行なうことです。娘や息子がこのように生きていれば、いまは亡き両親も、安心してくれるのではないでしょうか。お墓や仏壇・ご宝前へのお参りは、それ自体が親孝行です。その姿勢がすでに「自分の命の根源に感謝できる人間」に成長している証だからです。

開祖さまは、法華経に示された教えを身近な行ないにあてはめ、「親孝行」「先祖供養」「菩薩行」の三つが大事と説き示されました。では、その菩薩行とは何か。それは、布施・持戒・忍辱など仏さまの教えに随って、人を思いやり、周囲の人に喜ばれるような行ないのことです。見方を変えれば、人の喜びを自分の喜びにする人を菩薩といい、その菩薩の心を支える杖は、生かされていることへの感謝といえましょう。

そこで、先の親孝行のとらえ方をもう一度ふり返ってみましょう。日々をていねいにすごし、誠実に、人に喜ばれるような生き方をすること─この親孝行の具体像を菩薩行と重ねると、親孝行も先祖供養も菩薩行も、根本においては一つということがわかります。そして、これらすべてに共通するのは、いま命あることへの「感謝」です。「孝は百行の本」という言葉があります。「孝行はすべての善行の根本となる」という意味ですが、その孝行も生んでいただいた両親への感謝が基本ですから、命への感謝がすべての善行の土台となり、それが善なる世界を創造する力になると教える言葉なのかもしれません。

まもなく創立八十周年を迎える年に入ります。今月は本会で大事にしている「親孝行と菩薩行」についてお話ししました。このことをとおして自分の命の原点を見つめ直し、あらた

めて自身の信仰のあり方をふり返る機会になればと思います。そのうえで、一人でも多くの人に仏法をお伝えするという菩薩行の基本をかみしめ、生きる喜びを自他ともに味わわせていただきましょう。

1 2 3 4 5 6 8