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まほろば 奈良教会長コラム

平成三十年十二月度実践目標

2018.12.1

ふれあう一人ひとりの 仏性開顕に 願いをもって!

 

釈尊成道の月を迎えました。お釈迦さまが悟りを開かれた成道会を機に、仏教徒としての心を大事に、人さまに尽くす精進をお誓いしたいと思います。

今月の会長先生のテーマは、「使命にめざめる」です。次のようにご指導下さってます。

 

幕末のころ、福井に生まれた歌人の橘曙覧は、日常のささやかなできごとを、感謝と喜びに満ちた、幸せあふれる歌に残した人です。

「たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時」

「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時」

「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」・・・・・。

「たのしみは」で始まるこうした歌からは、いつ、どのようなときも、ものごとを感謝で受けとめる穏やかな心の内を感じとることができます。

この八か月間、「八正道」の徳目を一つずつとりあげて、私なりにその意味あいをお話ししてきました。そして今月は、「八正道」の最後に示された「正定」です。「正定」とは、心が常に仏の教えに安住していて、周囲の変化によって動揺しないことと受けとめられますが、たとえ貧しくても悲観せず、そこにある幸せを精いっぱい感受する橘曙覧のような心も「正定」の一つでありましょう。「楽しい」とか「楽しむ」という境地はほんとうに大切なもので、「八正道」の最初の「正見」について「気持ちが楽になる見方」(本年五月号)とお話ししたことにも通じます。なにごとも楽しいと受けとめる──そういうものの見方を心がけていると、気持ちが楽になって、目先の苦に迷うことのない、ほんとうに安楽な人生を歩めるのです。

ところで、「八正道」の「正」という字は、「一」と「止」が組み合わさってできています。仏の教えの「一」といえば、もちろん「真理」であり「法」です。いわば「八正道」の各徳目は、いずれも私たちが「真理に止まる」ための実践であり、その基本となるのが初めにおかれた「正見」といえます。その意味でいえば、「八正道」のすべてを修めるのは荷が重いという人も、日々の暮らしのなかで、何かにつけ、ふと省みて「正見」に立ち返る習慣をつけることが大事なのだと思います。とくに、ものごとに行き詰まったときとか、心苦しいときには、「一」つまり「真理」に帰る意味で目の前の現象を正しく見ていくと、何が心を悩ませ、どうすれば気持ちが楽になるのかがわかるのではないでしょうか。

こうして真理にそった生き方を求める仲間を、仏教では「正定聚」といいます。平たくいうと「仏さまのようになりたいと決意した仲間」のことですが、この言葉からは「正定」のとらえ方をさらに深めることができそうです。私たちはみな、お互いに生かし生かされています。そのなかで、仏の教えをとおして人間らしい生き方を学んだ私たちは、仏への道を歩みつつ、一人でも多くの人の仏性開顕という使命を果たしていきたいと思います。

平成三十年十一月度実践目標

2018.11.1

平成三十年十一月度実践目標

人さまの 幸せ願って 今に集中!

 

いよいよ、開祖さま生誕会の月を迎えました。開祖さまが佼成会を創立した意義をかみしめ、「報恩感謝」と新たなる「誓願」をさせて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは「思いやりを、いつも心に」です。次のようにご指導下さってます。

 

そろそろ温泉のぬくもりが恋しい季節になってきました。たっぷりの湯につかり、思わず「極楽、極楽」とつぶやく、そんな瞬間に安らぎを覚える人も多いことでしょう。心が安らかで楽しいとき、たとえそれが温泉につかっているときであっても、私たちは、思い煩いや恨みつらみといった感情を離れているのではないでしょうか。迷いやとらわれが心からするりとほどけ、何にも縛られない、安らかでのびのびとした自分がそこにいます。

「仏」という漢字は、日本語で「ほとけ」と読み、執着・こだわりから解き放たれた「ほどける」が転じたものという説があります。ですから、ほんのひとときでも、安楽で、なんの心配もないときがあるとすれば、それはまさに自分を縛るものから離れた「仏の境地」といっていいのかもしれません。

ところで、仏教では、「心を常に正しい方向に向ける」ことが大切といわれます。これは、釈尊が最初の説法で説かれた「八正道」の七番目に示された「正念」のことです。ただ、「正しい方向とは何かが、よくわからない」というのが、多くの人の本音だと思います。端的にいえば、「仏」や「真理」に心を向けることですが、これも少しわかりにくいといわれそうです。そこで、私なりに理解するところでいうと、先にお話ししたような「心がほどけ、安らかで楽しいとき」こそ、心が正しい方向にあるといえると思うのです。

法華三部経の一つで仏説観普賢菩薩行法経に、「もろもろの迷いや煩いから離れ、安楽で淡々とした心を保ちたいのであれば」(常に涅槃の城に処し 安楽にして心たんぱくならんと欲せば)という、私たちにとっては願ってもない問いと、その答えともいうべき一節があります。それは、「当に大乗経を誦して 諸々の菩薩の母を念ずべし」。すなわち、

朝夕の読経を習慣とし、「慈悲、思いやりの心をもって生きよう」と願うことだというのです。

ときおり、「慈悲がなかなか身につかない」と嘆く人がいます。しかし、その人はまさに「思いやりをもって生きよう」「あの人を数ってあげられたら」と願っているからこそ、そのことで思い悩むのでしょう。つまり、その人はもうすでに、思いやりの心が身についているのです。また、「正念」の意味を「気づかい」「心くばり」と表現する人もいますが、茶道の裏千家前家元である千玄室師は、「『あなたがお幸せでありますように』、ただその

一念で相手に仕える」といわれます。雑念を捨て、自分の「いま」に集中する。さらに、自分の思いは差し置いて、人さまが喜ぶように、幸せでありますようにと願いつつ、心を

一つのことに向ける。それもまた、「正念」でありましょう。

平成三十年十月度実践目標

2018.10.1

法によって人を救う 精進こそ

            「仏性開顕」の 王道

 

十月四日、ご入寂された開祖さまを偲び、「追慕・讃歎・報恩感謝・継承・誓願」の心を新たにし、更なる布教伝道に邁進致します。

会長先生のテーマは「自他ともに心楽しい精進を」です。次のようにご指導下さってます。

 

紅葉してそれも散行く桜かな

暦の上では秋を迎えたこの時季の趣を、俳人の与謝蕪村がこのように詠んでいます。桜の葉が、ほかの樹木に先んじて色づき散るようすを描写した句ですが、春の花がみごとに咲き、散っていく姿を重ねあわせると、与えられた生をひたむきに全うする桜木のありように胸を打たれます。

「精進」の「精」の字は、米を搗いて白く(精白)することで、そのことから、純一無雑、

つまり、まじり気のない前向きな生き方をすることを精進といいます。

そう考えると、冒頭の句のような、桜の葉が紅葉し、散るといった自然の営みは、すべてが精進のありようを示すお手本といえます。そして私たちも、絶えず創造・変化する自然の一部ですから、「天地自然の理に随って生きるように」と勤めることが精進であり、「八正道」に示される「正精進」とは、そのことをいうのではないでしょうか。

 

ただ、樹木と違って、私たち人間には自分本位の我が出ることがあります。好き嫌いや善し悪しなど自分のものさしがあり、目の前の現象を素直に受けとれなくなるときがあります。そのとき、心を真理にそわせていく工夫をこらすことが「精進する」ということで、その工夫、つまり、ときに応じた精進のあり方を、釈尊はさまざまに説き示されています。

拙著(『心田を耕す』)でもご紹介した誌偈のなかの、「恥じる」「内省する」「身と言葉を慎む」「過食しない」「真実を守る」「柔和」などの姿勢をとおして、ときどき顔をだす自分のわがままな心を反省したり、懺悔したりしながら本来の自分に帰るのです。ただし、やはりどれも気負って務めることではなく、むしろ自分もまわりの人も、ともに心楽しくなるような工夫ととらえてみてはどうでしょう。

少し言葉を慎むだけで調和が生まれ、柔和に接することで相手の心がほぐれます。腹八分目で体が楽なのは、だれもみな体験していることでしょう。「人の喜ぶことをしよう」「人に親しまれる自分になろう」「自分に恥じない行動をしよう」「人にはやさしく親切にしよう」「絶対に怒らない自分になろう」。このことを日々くり返し自分に言い聞かせ、ときには反省しながら仏道を歩む喜びを語っておられたのです。それは、精進をとおして本来の自分に出会う喜びだと思います。そして、この本来の自分とは、いうまでもなく仏性にほかなりません。

平成三十年九月度実践目標

2018.9.1

目の前の瞬間のふれ合いを大事に、

                惜しみなくつながる実践を!

 

慈悲の生涯貫かれた脇祖さまを偲び、報恩感謝の布教実践に邁進してまいります。

会長先生のテーマは、「あらゆる『いのち』に奉仕する」です。次のようにご指導下さってます。

 

私たちは、生きていくために必要な衣食住のそれぞれを、随時、手に入れなければなりません。そのことについて、仏教では「正しい生活法によってそれを求めるように」と説かれています。「八正道」の五番めに掲げられる「正命」のことですが、一般の社会で暮らす私たちにあてはめると、「正しい仕事によって生計を立てる」ということになります。ただ、さまざまな仕事に対して、正しいとか正しくないなどの区別はつけ兼ねることです。すると、「正しい仕事」の「正しい」とは、どういうことなのでしょうか。

「農民は作物に仕え、牧場主は牛に仕え、教育者は子どもに仕える」といった言葉を教えていただいたことがあります。「仕事」は漢字で「事に仕える」と書きますが、仕えるというのは偉大な存在に随うことですから、仕事の対象となる相手や物を尊び、敬い、感謝の念をもって、与えられた役割に一所懸命とりくむ ─ そのような姿勢が、「正しい」の意味するところだと私は受けとめています。あらゆるものを拝む気持ち、感謝の念は、仕事はもちろん、私たちの生活すべてにわたる「正しい」生き方の根本だということでしょう。そして、その気持ちがあれば、不平や不満を抱くことなく、素直に、喜びをもって目の前のことに打ち込むことができるのです。

 

仕事に限らず、日常生活で目の前のことに一所懸命に尽くすことが、「正しい命の使い方」ということもできそうです。家事や子育てはもちろん、人さまのお世話をすることや、あるいはお世話をしていただくことさえも、そのときその人に神仏から与えられた、いわば天命ともいえるお役ですから、それを素直に受けとめて、楽しくつとめることは「正しい命の使い方」にほかなりません。私たち一人ひとりが、暮らしのなかの小さなひとコマもおろそかにしないで、「正しい命の使い方」につとめればいいのです。すると、それはやがて大きなうねりとなって、釈尊の願われる世界を築く力となります。なぜなら、私たちはみな、物心ともに世界じゅうのあらゆる「いのち」と、網の目のようにつながっているからです。

本会の脇祖・長沼妙佼先生は、信者さんの救いに徹するなか、「朝寝坊がいけない」などの厳しい指導をされました。仏さまの教えは基本を大事にしてこそ輝き、信仰とは日々の暮らしそのものだということを教えられたのでしょう。

九月十日は、その脇祖さまの報恩会です。

平成三十年八月度実践目標

2018.8.1

 

 二つの心(仏性)が、いつも向かいあって

         「坐っている」ことを 忘れない!

 

夏本番、青少年育成月間の月に斉家を基本にして、家庭・社会・国家・世界の平和境目指して平和祈願の月の実践してまいりたいと思います。

会長先生のテーマは「敬う心 と 恥じる心」です。次のようにご指導下さってます。

 

今月は「八正道」の「正行」について考えてみましょう。

「正行」は、仏教の辞典で「正業(正しい行ない)」とも示され、「身・口・意の三業」といわれるうちの、「身の行ない」(身業)における正しいあり方のことです。ちなみに本誌

の六、七月号でお伝えした「正思」と「正語」も、それぞれ三業の一つである、心による行為(意業)と、言葉による行為(口業)の正しいあり方ということになります。

それでは、正しい身の行ないとはどういうことでしょうか。解説書には、不殺生、不偸盗、不邪淫の三つ、すなわち「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪な男女関係を結ばない」ことが、正しい身の行ないとあります。

釈尊は、私たちがこの世で味わう苦から解放される道を悟られた方ですが、何が苦悩の原因となるのかを見極められたうえで、これらを示されたのでしょう。その意味では、戒めというよりも、私たちが日々を明るく、楽しく生きるための助言と受けとめるほうが自然に思えます。「このことを忘れなければ家庭も社会も平和で、楽に生きられますよ」という、釈尊からの温かなアドバイスということです。

 

「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪な男女関係を結ばない」ことが正しい身の行ない~~確かに、それは正しいに違いなく、殺生や盗みは法律にふれる対象でもあります。それでも、「してはならない」という禁止事項が「正しい行ない」といわれると、心理的に「正行」のハードルが高く感じられます。そうであれば、「戒律を守らなければならない」と意識する以前に、いつでも自然に、「苦悩しないですむような行ない(正行)をせずにはいられない」ようになればいいのです。

そこでキーワードになるのは、敬う心と恥じる心です。

敬う心と恥じる心は、進歩・向上を求める人間の本能に通じるともいわれます。すると、つい我を忘れて道を踏みはずしそうになる私たちを、本来の人間らしい生き方に立ち戻らせるのも、この二つの心といえましょう。「正しい行ない」とは、「敬と恥」の二つに支えられたふるまいということができそうですが、その心と行ないは、日ごろの人間関係から国家の関係に至るまで、そこに和を築く大切なものです。それは、道を見失いがちなあらゆる場面でいま、大きな力を発揮するものだとも思うのです。

 

平成三十年七月度実践目標

2018.7.1

信じて尋ね、信じて言い切る言葉こそ 真実の慈悲!

 

盂蘭盆会の月を迎えました。

利供養・敬供養・行供養を通し、ご先祖さまに真心からの回向させて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは「和らぎをもたらす言葉」です。次のようにご指導下さってます。

 

釈尊の基本的な教えである「八正道」の一つに「正語」があります。真理にかなう言葉を語るということですが、私たちはふだん、そのように「正しく語る」ことを、ほとんど意識していないのではないでしょうか。「正語」を実践するうえで大事なのは、何をどう話すかということよりも、正直に生きる誠実さを忘れないことなのかもしれません。

言葉の内容ではなく、対話する相手と向きあう姿勢ということで思い起こすのは、ノーベル平和賞の選考委員も務められた、ノルウェー国教会オスロ名誉司教のグナール・スタルセット師(第三十回庭野平和賞受賞者)です。スタルセット師は、国際会議の席で意見が分かれるようなときでも、その場をじつにうまくまとめていかれます。とはいえ、師が饒舌なのではありません。むしろ、寡黙なかたです。さまざまな声にじっくりと耳を傾け、求められれば穏やかに見解を述べつつ、最後に「では、このようにしてはどうでしょうか」と、みなさんに諮るのです。

立場の違う人が集まる席では、議論が紛糾することもあります。そこに調和をもたらすのは、人の意見をよく聞いて思いを酌みとる姿勢と、自我を抑えた公平な態度から発せられる言葉だということでしょう。師の示すこの姿勢には「正語」の意味あいの核心が示されていると思うのです。

 

日本語で、漢字の「愛」は「かなし」といいます。愛する、慈しむということは、悲しむということであります。母親がわが子を愛おしむ心、といえばわかりやすいかもしれません。

「正語」、すなわち「正しく語る」ということのなかには、そうした慈しみ、悲しむ心と、相手の幸せを念ずる情が籠められているのではないでしょうか。

「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」とは道元禅師の言葉ですが、スタルセット師の言葉には、宗教者に共通する慈愛の念が籠められており、だからこそだれにも受け入れられるのだと思います。そういえば、良寛さんが放蕩三昧の甥を改心させたのは、説諭の言葉でも叱責でもなく、甥を思って流したひと筋の涙でした。慈愛に満ちた沈黙によって伝わる「正語」もあるということです。

私たちの幸せをだれよりも念じてくださる両親やご先祖の愛心を、まもなく開花を迎える清らかな蓮華を愛でながら、この盂蘭盆の時期にあらためてかみしめてみるのもいいのではないでしょうか。

平成三十年六月度実践目標

2018.6.1

どこまでも、一切衆生悉有仏性と惜しみなく出逢い

           心の枠を広げる実践に!

 

教団創立八十周年の後半の月を迎えました。

地域の人々と共に、我々が菩薩を育てる苗代となれるよう役割を果たしてまいりたいと

思います。会長先生のテーマは「踏みとどまる」です。次のようにご指導下さってます。

 

現存する経典のなかで最も古いものの一つとされる法句経に、「走る車をおさえるように、むらむらと起る怒りをおさえる人 ─ かれをわれは〈御者〉とよぶ」(中村元訳〳岩波文庫)という一節があります。ここで釈尊は、怒りをコントロールすることの大切さをお諭しくださっています。しかし、そう教えられても心にブレーキをかけるのは難しく、それは何も怒りの衝動だけに限りません。いわなくていいことを口にしたり、誘惑に負けて買わなくてもいいものを買ったり道を踏みはずしたり、そのことがもとで人と争ったりする私たちなのです。

では、怒りや欲、自己中心の考えに流されそうになったとき、どうすれば踏みとどまることができるでしょうか。私は、とりあえず「ひと呼吸おく」ことをおすすめします。

一度、深呼吸をするだけで少し心が鎮まります。できれば、ひと晩おいて冷静に考えるのも大切なことでしょう。また、信仰をもつ人であれば、心に貪・瞋・痴の黒い雲がわきかけたら、「仏さまはどうお考えになるだろう」「どうなさるだろう」と思いをめぐらせば、冷静さをとり戻せると思います。なかには、神仏のような姿の見えない存在ではなく、「親父ならどうするだろう」「母なら・・・」と、直接ご縁のあった身近なお手本を思い浮かべ、怒りや欲やわがままな気持ちを落ち着かせる人もいることでしょう。

「八正道」の二つめにあげられる「正思」は、「貪・瞋・痴を離れ、仏さまのような大きな心で考える」ということです。

そこで、少し見方を変えて「正思」の内容を吟味し、理解を深めてみてはどうでしょう。欲ばる心、怒りの心、他を蔑ろにする心のないのが「正思=正しく考える」ということですが、それは「分けあう心」「あたたかく接する心」「いたわる心」で考える、と言い換えることができます。そして、それをひとことでいえば「思いやり」にほかなりません。つまり、ここでいう「正しく」とは、「思いやりの心で」ということになります。以前、「黙して太陽の如く、清風の如く、柱の如く、石の如く」という言葉をご紹介しました。人とのトラブルなどで激しい感情にふり回されそうなときほど、この言葉のように静かに大自然のありようを想い、心の枠を広げてみましょう。

天地自然と私たちが一つであるように、目の前の人とも一つなのだ ─ そうした気づきによって、私たちは自らの心の〈御者〉になれます。仏さまのような大きな心で、

感謝の人生を歩むことができるのです。

平成三十年五月度実践目標

2018.5.1

真理にあった、調和のとれた、目的にあった

                見方(観方)を実践!

 

青年の日を迎える月です。第三日曜日に、総力を結集して社会変革の風を起こすべく、「青年の日」を意識し、今月は青少年と一体となって布教に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは「楽しく生きる」です。次のようにご指導下さってます。

 

少し前の話になりますが、今年の一月から二月にかけて、日本では全国的にまれにみる大雪となりました。本会の年中行事である「寒中読誦修行」(寒修行)の期間も雪が降って、道場に足を運べない方も数多くいたようです。そうしたなか、東京でも交通機関が停滞するほどの降雪でしたが、そのとき、大聖堂でこんな声を聞いた人がいます。

「人がせっかく寒修行をしているのに、どうしてこんなに雪が降るんだ!」。早朝に家を出て、自動車やバス、電車で参拝する人にとって雪は困りものですから、グチが出るのも当然かもしれません。一方で、ある人はつぎのような声を耳にしています。

「雪のおかげで、ほんとうに寒修行らしい修行をさせていただけて、ありがたい!」

さて、みなさんは、どちらの見方をする人が、楽しく生きられると思いますか。私は、後者に軍配が上がると思います。けっして、むずかしいことをいっているわけではありません。ただ、天地自然の変化を素直に見て、それをありのまま受けとめているところがすばらしい。しかも、素直に受けとめているだけなのに、自分にもまわりの人にも、寒さや眠気を吹き飛ばすように感じさせるのはなぜなのでしょう。それは、ものごとを「正見」で見るか、どうか、その違いだと思うのです。

 

仏教で説く「八正道」の「正見」は、「正しい」という言葉の語感から、容易にはできないこと、悟った人だけが会得できることのように思いがちです。先の雪の日の例のように、天地自然のはたらきを素直に見る─それが「正見」ではないでしょうか。

「正見」はまた、邪な見方や偏った見方、つまり自己中心の見方で見ると、不平や不満、あるいは怒りを覚えることも、大らかに受けとめることで、その結果、気持ちが楽になる見方ともいえます。

また最近、心臓の手術を終えて退院された方が、「これまでは、心臓が動いていることに感謝したことなどありませんでした。でも、それは当たり前ではなかったんですね」と、しみじみ話してくれました。「ああ、これが正見なのだな」と、そのとき私は教えられた思いがしました。「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」という、この世の真理に照らしてものごとを見る。それが、「苦を滅する正しい道」として教えられる「八正道」の、最初に説かれる「正見」です。それは、仏さまの教えに則って生きる基本であり、またすべてということができるかもしれません。

平成三十年四月度実践目標

2018.4.1

吉野の清九郎妙好人・中宮寺菩薩半跏像に倣い

    目の前のいのちに合掌礼拝を!

 

降誕会の月を迎えさせて頂きました。降誕会に私たちの“いのち”を見つめ直し、自他の“いのち”を生かすべく仏性礼拝行に徹して布教伝道に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは「円満な人になる」です。次のようにご指導下さってます。

 

ある職場に、朝のあいさつをとてもていねいにする人がいたそうです。しっかりと相手の顔を見て、「おはようございます」といいながら、頭をゆっくり下げる。それだけのことなのですが、慌ただしい朝の空気のなかで、ていねいすぎるその姿勢を煩わしく思う同僚もいたといいます。ところが、しばらくすると職場の雰囲気が変わってきました。それまで、すれ違いざまに「おはよう」と言い交わしていた人たちも、それぞれが相手としっかり向きあってあいさつをするようになり、やがて職場の空気が和らいできたというのです。

円満とは、人格が「十分に満ち足りて、欠点や不足のないこと」です。ですから「円満な人になる」といえば、いわば人間の理想に近づくことで、仏教徒にとっては仏さまのような人になることを意味します。しかし、だからといって遠い目標ということではないと思います。人に安心や満足を与え、そのことをとおして、相手に「人と仲よくしたい」という気持ちを発さしめたり、その場に調和をもたらしたりするのが仏・菩薩のはたらきと受けとめれば、朝のあいさつ一つで人の心を動かし、職場に和らぎをもたらした人は、まさに円満な人そのものです。足りないところの多い私たちですが、だれもがみな、仏性を具えていることの証ともいえましょう。そしてこの春、新たな出会いを円満な人間関係にする決め手も、あいさつをとおして相手の仏性を拝むことにあるといえるかもしれません。

 

人間の本質が仏性であり、人格円満であることを示す話は、ほかにも数多く見られます。

江戸時代、現在の奈良県吉野に暮らした清九郎という妙好人(浄土真宗の篤信者)は、留守宅にあったお金を盗まれたとき、こういったそうです。「私のような者の家に盗みに入るその方は、よほど困っていたのでしょう。たまたまわが家にお金があったのでその人も得るものがあり、うれしく思います」と。そして、「私はいま、仏の慈悲に導かれて“盗まれる身”にさせてもらい、これほどうれしいことはありません」と語ったというのです。

評論家の亀井勝一郎さんは、柔和な微笑みで知られる奈良・中宮寺の菩薩半跏像の、その口もとに湛えた笑みを、嘆きや悲しみによってこみあげる「慟哭と一つなのかもしれない」と綴っています。菩薩の心の奥には七転八倒の苦悩があり、言葉に尽くせない思いがあるというのです。

「悲智円満」という言葉があります。釈尊も、そして私たちも、慈悲と智慧をあますことなく発揮するために、この世に願って生まれてきたといわれています。

平成三十年三月度実践目標

2018.3.1

地域のオアシスとなって

    会員綱領の如く、法(一乗)の光を届けよう!

 

創立八十周年の月を迎えさせて頂きました。創立の意義を深く認識し、新たな決意で精進することをお誓いしたいと思います。

会長先生のテーマは「地域の人びとと共に、幸せに」です。次のようにご指導下さってます。

 

多くの方のおかげさまで、本会は今年、創立八十周年を迎えました。まだまだ浅い歴史ではありますが、そのなかで、いまから三十年前に、開祖さまは本誌でつぎのように述べています。「究極の目標は世界人類の救済にあろうとも、あくまでも身辺のことをおろそかにせず、まず目の前の一人を救い、おのれの家庭を調え、地域社会の浄土化へ進むという、着実な歩みも忘れてはならない」(昭和六十三年・三月号)

創立五十周年の年に示されたこの決意を、私は、節目の年を迎えて新たな一歩を踏みだそうとするいま、あらためてかみしめています。以前、私は「(地域の)みんなが幸せになることによって、私たち佼成会会員の幸せもある」と申しました。「地域社会の浄土化」とは、そこに住む一人ひとりが、自分の幸せだけでなく、地域の安寧やみんなの幸せという、いわば公のことに意識を向けながら、生活の一つ一つをおろそかにしないで明るい家庭を築いているということです。現実社会という娑婆も、こうして常寂光土となるのです。もし暗い表情をして沈んでいる人がいたら、その心に一灯を点じて笑顔をとり戻し、地域全体を明るく照らしていくのが信仰をもつ私たちの精進であり、役割だと思うのです。

夕暮れの街を数時間、高台から撮影した映像を見たことがあります。日が落ちるにつれて一軒、また一軒と灯りがともり、やがて街全体が夕闇の底に明るく浮かび上がってくるのですが、地域に幸せが広がるというのは、もしかすると、この光景のようなものかもしれません。窓から明るい灯がこぼれ、凍てつく夜も家のなかは笑顔とぬくもりにあふれている─

そういう、だれもが帰りたくなるようなあたたかな家庭が、一軒ずつふえていくイメージです。そして、その最初の一軒は、みなさんのご家庭です。家族がみんな仲よく、それぞれが敬いと親愛で結ばれて、心安らいでいる。“わが家”をそういう家庭にすることが、地域全体の幸せの始発点になるのです。

また本会には、各地域に教会道場があります。信者のみなさんにとってのオアシスであるばかりでなく、どなたにとっても身心が休まる場所であることが望まれます。ただ、それには私たちが率先して地域にはたらきかけることが大切です。「出入口」という言葉が示すように、まずこちらから一歩を踏みださなければ、入ってきてはいただけないのです。そのことを踏まえ、ぜひ地域のみなさんと一つになって、街全体をオアシスのようにしていただきたいと思います.。家庭の幸せを始発点として、地域のみんなが仲良く過ごすことは、大きな平和への一歩でもあるのです。

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