まほろば 奈良教会長コラム

令和元年五月度実践目標

2019.5.8

「苦」から逃げず、それをそのまま受入れてみよう!

  ~ 「苦」は「智慧」の湧き出る泉 ~

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天皇陛下の御即位心よりお慶び申し上げます。

四月三十日には天皇陛下がご退位され、五月一日には新たに新天皇としてご即位されました。いよいよ御代があらたまり、〈令和〉時代がはじまりました。この大慶を機に、皆さんと共にこの〈令和〉時代を【人格完成・世界平和】に向けて修行精進の道を歩んで参りたいと存じます。

今月は、『なぜ、苦しみが絶えないのか』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

自らを振り返ると、自身にとって都合のよいことであれば喜び、自身にとって都合の悪いことであれば落ち込むという一喜一憂して、感情や環境に振り回されている日々を過ごしていることが如何に多いことかと反省するばかりです。

更に、厄介なのは、自己中心性の強い考えが湧きあがっているときで、周りまで巻き込みお互いに苦労の絶えない関係となり、いつまでたっても苦からの脱出(幸せへの道筋)が見えないことを体験的に多くの方もご存知ではないかと存じます。

前項の【「苦」と「苦しみ」の違い】では、「四苦八苦」は良く耳にする言葉ですが、その内容は「生・老・病・死」の四つと「愛別離苦(愛するものと別れる苦)」・「怨憎会苦(憎い人やいやなものに会う苦)」・「求不得苦(求めるものが得られない苦)」・「五蘊盛苦(身心のはたらきによって生ずる苦)」の四つを加えて、人間が背負っている「苦」とお示しくださいました。

しかし、釈尊はこの「苦」を我々が理解している意味の「苦」ではなく、特に先の四苦八苦は『自分にはどうすることもできないこと』を示しているのであって、「苦」から「苦しみ」に変わるとは、思い通りにならない事実を受け入れることができないために苦しんでいると教えて頂きました。

後項の【「苦」は「智慧」の湧く泉】では、大事なこととして、「苦」を「苦しみ」へと増長させるのではなく、「苦」との出会いは「智慧」に目ざめるチャンスでもあると気づくことであり、『「苦」も、そこに感情をまじえなければ「無記」つまり善でも悪でもないのですから、それをどのように受けとめ、制御するかで、その後の人生に大きな違いが生まれます。』と教えて下さいました。更に、『「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。』そこから、この苦しみは私に必要があって与えられた試練だと受けとめると、私たちが本来もっている「智慧」がはたらきだし「苦」は楽しみにむかう大切な道しるべとなり、その「苦」も抜き去られることとなり

『これが、「苦」があっても苦しまない生き方といえるでしょう。』とお示しいただきました。

重ねて、私がご法話を学ばせて頂くに当たって、開祖さまのご著書「私の履歴書」の中で、「転迷開悟(てんめいかいご)」について記されていましたのでご紹介したいと思います。

『苦から救われたいと逃げ出したり、もがいたりせず、苦を直視し苦の中に足をしっかりつけることだ。それが落ち着くということの意味だろう。(中略)苦こそが、人を培い、育て、救うのである。これにハッと気づいた時を転迷開悟という。忌まわしくて、一刻も逃げ出したい、救われたいと思っていた苦や迷いが、一転して悟りを開く動機となる。』という一節のおかげさまで、より私の理解が深まりました。

ご法話の結びにあたり『苦しい思いをしなければ、仏さまの教えという「幸せにつながる道」に歩んでいないかもしれないのですから。』と結んでいただき、「苦」があったればこそ今(現状)につながっていることへの感謝を忘れないことも噛みしめてまいりたいものと学ばせて頂きました。私は、後項の中で「苦」から逃げずにそのまま受け入れる覚悟と「苦」が必要であったと、私自身が受けとめるために、〈○○のおかげさま〉とまずは、当てはめて考えるように心がけています。何事も、いきなりその場にたどり着いたのではなく、様々な事柄や出会いのおかげさまによって、たどり着いた今であると皆さんも感謝で受けとめてみてはいかがでしょうか。

最後に、『〈令和〉には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ』という意味が込められているそうですが、佼成会の〈佼〉の字は人と人の交流・調和を表徴するものと教えて頂いているところと捉えますと、サンガの結合を大事にしているこの教えが、特に重要になっていくのではないかと思わせて頂いています。あらためて、そのような時代を、皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。