まほろば 奈良教会長コラム

平成三十年四月度実践目標

2018.4.1

吉野の清九郎妙好人・中宮寺菩薩半跏像に倣い

    目の前のいのちに合掌礼拝を!

 

降誕会の月を迎えさせて頂きました。降誕会に私たちの“いのち”を見つめ直し、自他の“いのち”を生かすべく仏性礼拝行に徹して布教伝道に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは「円満な人になる」です。次のようにご指導下さってます。

 

ある職場に、朝のあいさつをとてもていねいにする人がいたそうです。しっかりと相手の顔を見て、「おはようございます」といいながら、頭をゆっくり下げる。それだけのことなのですが、慌ただしい朝の空気のなかで、ていねいすぎるその姿勢を煩わしく思う同僚もいたといいます。ところが、しばらくすると職場の雰囲気が変わってきました。それまで、すれ違いざまに「おはよう」と言い交わしていた人たちも、それぞれが相手としっかり向きあってあいさつをするようになり、やがて職場の空気が和らいできたというのです。

円満とは、人格が「十分に満ち足りて、欠点や不足のないこと」です。ですから「円満な人になる」といえば、いわば人間の理想に近づくことで、仏教徒にとっては仏さまのような人になることを意味します。しかし、だからといって遠い目標ということではないと思います。人に安心や満足を与え、そのことをとおして、相手に「人と仲よくしたい」という気持ちを発さしめたり、その場に調和をもたらしたりするのが仏・菩薩のはたらきと受けとめれば、朝のあいさつ一つで人の心を動かし、職場に和らぎをもたらした人は、まさに円満な人そのものです。足りないところの多い私たちですが、だれもがみな、仏性を具えていることの証ともいえましょう。そしてこの春、新たな出会いを円満な人間関係にする決め手も、あいさつをとおして相手の仏性を拝むことにあるといえるかもしれません。

 

人間の本質が仏性であり、人格円満であることを示す話は、ほかにも数多く見られます。

江戸時代、現在の奈良県吉野に暮らした清九郎という妙好人(浄土真宗の篤信者)は、留守宅にあったお金を盗まれたとき、こういったそうです。「私のような者の家に盗みに入るその方は、よほど困っていたのでしょう。たまたまわが家にお金があったのでその人も得るものがあり、うれしく思います」と。そして、「私はいま、仏の慈悲に導かれて“盗まれる身”にさせてもらい、これほどうれしいことはありません」と語ったというのです。

評論家の亀井勝一郎さんは、柔和な微笑みで知られる奈良・中宮寺の菩薩半跏像の、その口もとに湛えた笑みを、嘆きや悲しみによってこみあげる「慟哭と一つなのかもしれない」と綴っています。菩薩の心の奥には七転八倒の苦悩があり、言葉に尽くせない思いがあるというのです。

「悲智円満」という言葉があります。釈尊も、そして私たちも、慈悲と智慧をあますことなく発揮するために、この世に願って生まれてきたといわれています。