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まほろば 奈良教会長コラム

平成三十一年四月度実践目標

2019.4.3

「徳分」に気づけるように、素直で謙虚な人となろう

 

日々ありがとうございます。

四月一日には新しい元号が発表され、本当の意味で「平成最後の・・・」という言葉も大詰めとなりました。皆さまは新たな御代を迎えるこの時期をどのようにお過ごしでしょうか。

 

この平成という時代は、災害など大きな被害に見舞われるという、想像もしなかった事態におかれることもありました。しかし、戦争という先の悲劇に学び、大きな惨禍を招くことの無かった時代を共に過ごすことができました事は、何にも変えがたい大変幸せなことであったと存じます。この機会を踏まえ、新たな御代には更なる平和な世界を目指した精進を共に歩んでまいりたいものです。

 

今月は、『香る風のような人に』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

生きとし生けるものすべてに活力が芽生え、寒さを越えた喜びを大いに発揮する季節の風によって春の訪れを実感することができるなど、いろいろな始まりを予感させるこの頃ではないかと拝察します。

 

そこで、会長先生より前項『心に香風がふきわたる』では法華経「序品」の「栴檀の香風 衆の心を悦可す」の一節をお示しいただき、開祖さまのご解釈から「仏さまの香風が衆生の心の中に入ってくると大歓喜が生じる」というところから、その教えを聞き、学び、実践していくことで、自身の価値観が自己中心性の受けとめ方であったことに気がつき、ほんとうに大切なことに気がつくことが、救われた実感であり、その気持ちは「大歓喜」であり、「悦可」していることと教えて頂きました。

 

後項『みんな「徳のある人」』では、人の心を「悦可」するには「徳分」が必要だと言われることが有り、その為には、自己の努力による善行の積み重ねが大事であるところも押さえてくださいましたが、私たちが今、現在尊い生命を授かっているには、大自然の徳をはじめ、まわりのありとあらゆる豊かな徳を具えているからこそ、気づき、それを成長させれば、だれもが香風を運ぶ「徳のある人」になるのだとお示しくださいました。

 

この度のご法話を学び、私は、心地よい雰囲気や世に言うオーラのように、その人が纏っている内面から醸しだすものを香風と表現して下さったのではないかと推察します。この人の傍にいるだけで心が癒される。あの人に出会うだけで嬉しくなる。などの体験をみなさんお持ちの事と思いますが、私もそのような香風を運ぶ人になれるとしたら・・・いかがでしょうか?その具体的な様子が、【何ごとにも感謝を忘れない素直で謙虚な人】であり、その香風を運ぶ人が、《明るく、やさしく、温かく》発する態度や言葉は、持ち前の徳をいっそう香らせ、この春の麗らかな風のように周りの人を憩わせるのだと受け止めさせて頂きました。

 

このことを踏まえ、あらためて、お釈迦さまのお生まれをお祝いする降誕の月である四月を以って、新年度を新たなスタートとして共々、切らせて頂きたいものと存じます。

最後に、現在各地で第一九回統一地方選挙が行われております。それぞれの地域のかじ取りを担う方をお選びする機会でありますが、今後の行く末を考える機会とも、とらえることができます。各地に香風を運んでくださいます方にお任せできるように、ひとり一人がよく考えての投票行動をお願い申し上げます。また、お出会いの方に香風を運ぶ、働きを目指して元気に共々修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

平成三十一年三月度実践目標

2019.3.1

幸せを生みだす私となろう ~いつでも、だれにも、「明るく、優しく、温かく」~

    

 日々ありがとうございます。

今月から、奈良教会の幹部家への参拝を開始させて頂きました。奈良教会の【いしずえ】を築いて下さいました方々のご先祖様への、御礼とお通しをさせて頂きたいとの願いで訪問させて頂くお手配を頂戴しております。どちらのお宅に行かせて頂いても、とても学びの出会いをさせて頂くことが多く、ここまでに到るまでのご苦労やご修行による喜びのお話しを沢山伺えていますことに、先ずもって感謝申し上げます。

更に、ご家族が陰役としてお支えくださり、幹部さんのご修行と共に努力精進して下さったことが、各家での喜びのお姿を(幸せ)として拝することが出来ました。

今後も引き続き、先輩幹部さんや、幹部家のお参りをさせて頂きたいと願っておりますのでお手配いただけますようどうぞよろしくお願いします。

 

さて、佼成三月号では、会長先生より『自他の幸せを願う心』と題してご法話を頂戴しました。前項の「「仏の子」だからこそ」の中で、誰もが、自分や家族の幸せを願っており、同時に他人の幸せをも願う心を持ち合わせていると、お心を頂戴しました。しかし、「仏の子」であるという自覚が、あるかないかが大事であり、「仏の子」であるという自覚とは、仏さまの教え、真理、法を受けとめたときに、納得や気づきをなしたことが、「仏の子」である証明ともなり、自他の幸せを願い、周囲に幸せを運ぶ【菩薩】の一人といえると教えて頂きました。

また、後項の「生きた経典として」では、入会者即布教者、について〈自分が迷いから抜け出すことが出来ていなくても、仏の教えを聞いた人は苦しむ人たちを救うことが出来る〉という経典の内容をお示しくださり、自身の救われた体験は、同じように苦しんでいる人にとって、幸せへの道筋であり、前項に示された、周囲に幸せを運ぶ【菩薩】だと受け止めさせて頂きました。

更に、幸せを生みだす私とは、救われた体験を持つ私が大切にすることとして〈いきいきと明るく生きる自分の姿を通して、苦悩に沈む人の心に真理の光を届け、安らかな人生に導いていく〉とお示し頂き、具体的には、『いつでも、だれにも、「明るく、優しく、温かく」の姿勢を忘れないことと』ご指導いただきました。

 

仏の子であると自覚した私たちは、(救う)ことに対する自信や勇気が無くても、教えが完全(りっぱ)であるからこそ、苦しむ人たちを救うことができます。その尊い行動の中に仏さまの教えが息づいているという会長先生のご指導に沿って、心配せずに、『いつでも、だれにも、「明るく、優しく、温かく」』多くの人に出会って参りたいと存じます。

 

最後に、三月は、創立記念の月であります。創立の精神といわれる、【現実に人を救い、世を立て直す】という開祖さまの願いによって幸せを頂戴した御恩に報いるためにも、皆さまとともに一人でも多くの苦しんでいる人に(幸せ)を生みだす。働きを目指して元気に

修行精進して参りたいと存じます。

                 合 掌

奈良教会長 中村 浩士

平成三十一年二月度実践目標

2019.2.1

「すべては一つ」で思いやりの心を発揮しよう!~徳分は、心の財産~」

 

日々ありがとうございます。平成最後の歳も明け、皆さま方におかれましては如何お過ごしでしょうか?私は、年始のご挨拶を奈良教会の代表として各支部の地域でお世話になっております神社さまや寺院さまへ正式参拝をさせていただくお手配を頂戴しました。先ずもって、お参りさせていただきました、橿原神宮さま、当麻寺さま、春日大社さま、大神神社さま、吉野神宮さま、廣瀬神社さま(参拝日程順)貴重な御出会いをさせていただき誠にありがとうございました。 また、正式参拝のような貴重な御出会いの機会を得ることが出来ましたのも、奈良教会の礎を築いてくださいました先達の方々のお陰さまであり、多くのコツコツと積み上げてくださいましたご尽力の賜物であることに改めて感謝申し上げます。

 

さて、佼成二月号にて会長先生より『人を思いやる「心の習慣」』と題してご指導を頂戴しました。冒頭、会長先生より、「街なかで困っている様子の人を見かけたとき、皆さんはどうされるでしょうか。」と問いかけてくださいました。その瞬間、ある会員さんのお話を思い浮かべました。その方曰く、「周囲の方々に、人柄のいい人だと言われていたそうですが(更なる向上心が素晴らしいですね)、だけれども、どうしても、腹を立ててしまう事が有る」ことが悩みなのだというその内容は、公共交通機関などにある【優先席】に、お元気そうな方が座っている姿を見ると、どうしても腹が立つとの事でした。でも、【優先席】に座っている方に勇気を出して、必要な方に座席の融通をお願いすると、皆さん快く席を譲ってくださるという経験もお持ちなのですが、座っている方を見るとヤッパリ腹が立つのだと、お話しくださいました。

 

実際は悩みごとのお話しでしたが、よくよくお話を伺うと、必ず自分の座っている席を譲り、席が無くてもお困りの方のため働きかけておられる行動を鑑みると、こういう方が、困っている方にどんな時でも、そばに駆け寄って声掛けされる方なのだろうと思うと、そうゆう会員さんが居られることに、とても有り難い気持ちになりました。

 

会長先生の教えてくださっている、菩薩(広く世の中の人びとを救おうという心をもって修行している人たち)、のように思いやりの心を奮い立たせて『苦しみから救い出そう』という決心をすでにお持ちの方だと感じました。その後その方は、見事に自身の心のあり方に立ち返られ、ご自身の悩みの原因として、欲得ずくの心を超えていくためのご修行に入られたのでした。

 

先述の会員さんのお話しを踏まえ、悩みにも徳分があり、その徳分によってなかなか損得勘定を捨てることが出来ない私たちでも悩みを超えてゆくことの証しとして、自然と行動にあらわすことが出来るようになるのだと教えていただきました。更にこの、欲得ずくの私を超えることを繰り返していくことが、なにごとも、「すべては一つ」という見方になれることになり、意識しなくても行動が“思いやり「心の習慣」”に通じていくのだと受け止めさせていただきました。

 

日々、私も人に席をゆずることを実行しようと決意していますが、断られることもあって出来ない時もあります。しかし、少しでも思いやりの行動が出来る自分づくりを諦めず、引き続きこだわって、損得の価値観から脱却し、コツコツと心の財産を膨らませ、私の掛ける言葉や行動の、全てが思いやりの心の発現となることを改めて目標としたいものです。

 

最後に、厳しい寒の修行を共に乗り越え、努力に裏打ちされた自信を持って、節の変わりを迎え【己(つちのと)亥(い)八白土星】〈スタート〉〈出発〉、という運気の年でもある八十一周年を皆さまと供に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

平成三十一年一月度実践目標

2019.1.1

「乾いた心に潤いを。~いつでも心安らぐ仲間づくり~」

奈良教会の皆さま、初めまして十二月一日付けで、奈良教会長の大役を拝命しました。
中村 浩士(なかむら ひろし)と申します。出身教会は富山県の高岡教会で育てていただき、父母方とも信仰三代目の修行を、現在もさせて頂いています。木材関係の企業に勤めておりましたが、平成十九年に奉職のお手配の後、青年本部に五年、西日本教区に六年、籍を置かせていただき今日に至っております。いつも私が大事にしたいと思うところは、すべての皆さまに学びつつ、感謝で出会い、一人でも多くの方々に教えにふれていただきお幸せになっていただきたい、と願っております。そのためにも精一杯、皆さまのお役にたてるよう努力精進して参りますので、何卒ご支援を切に賜りたいと存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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さて、佼成一月号にて会長先生より『みんな善の根っこをもっている』と題してご指導を頂戴しました。平成最後の歳が改まり、更なる精進を誓い清々しく新たなスタートをと考えている中ではありますが、何かしらの事情で「前向きな気持ちになれない」との出会いの時、自身の中に具わっているものの、価値を顕かにしていくことで人生に対する悲観的な見方が消え、人の役に立つ生き方を歩むことができるのだ、と示して頂きました。その中で、根っこが育ち、伸びるには「活力を与える潤い」が欠かせないことをポイントとして教えていただきました。

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私は、この潤いとは真っ暗闇に一筋の光が差し込むように自身の中にあった優しい心を見つけた。または見つけることが出来た。という実感を言うのではないかと受け止めさせていただきました。更に、そのやさしい心は自身の心に潤いをもたらし、活力を得た心は、他の乾いた心に潤いを分け与えていくことが、出来る生き方の表明として「身近な人の善き縁になろう」と願って生きることにつながることとなり、やさしい言葉がけや日々の態度によって潤いを分け与えていくことが、ほんとうの意味の仲間(正定聚・ショウジョウジュ)となるのではないかと受け止めさせていただきました。

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先日、横断歩道の真ん中でジッと留まっておられる高齢のご婦人とすれ違いました。何やら動けずにいた所でしたが、奈良教会の壮年部の方々と一緒に残りの横断歩道を渡らせて頂きました、その際に、信号が変わるところにもかかわらず車両の先頭に停車していた若いカップルが車を止めたまま窓から手を出し、こちらが渡り切るまで促して下さいました。この瞬間に立ち会った私は善の根っこに潤いを得たことは言うまでもありません。

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皆さまにお伺いします。先ずは、私(ご自身)の心は潤っていますでしょうか?
潤いを感じないようでしたら、潤いを分けていただきに出かけませんか? 次に、
私(ご自身)の心に潤いを感じたら、乾いている心の方へ潤いを分けに出かけませんか?

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特に、年末年始は、日ごろお会いできない方々とお会いする機会が多くあるのではないかと拝察します。日ごろの感謝とともに、潤いを分けることができるチャンスを、共々活かして参りたいものと存じます。
最後に、皆さまにおかれましては、より善い歳をお迎えされますよう祈念申し上げます。

平成三十年十二月度実践目標

2018.12.1

ふれあう一人ひとりの 仏性開顕に 願いをもって!

 

釈尊成道の月を迎えました。お釈迦さまが悟りを開かれた成道会を機に、仏教徒としての心を大事に、人さまに尽くす精進をお誓いしたいと思います。

今月の会長先生のテーマは、「使命にめざめる」です。次のようにご指導下さってます。

 

幕末のころ、福井に生まれた歌人の橘曙覧は、日常のささやかなできごとを、感謝と喜びに満ちた、幸せあふれる歌に残した人です。

「たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時」

「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時」

「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」・・・・・。

「たのしみは」で始まるこうした歌からは、いつ、どのようなときも、ものごとを感謝で受けとめる穏やかな心の内を感じとることができます。

この八か月間、「八正道」の徳目を一つずつとりあげて、私なりにその意味あいをお話ししてきました。そして今月は、「八正道」の最後に示された「正定」です。「正定」とは、心が常に仏の教えに安住していて、周囲の変化によって動揺しないことと受けとめられますが、たとえ貧しくても悲観せず、そこにある幸せを精いっぱい感受する橘曙覧のような心も「正定」の一つでありましょう。「楽しい」とか「楽しむ」という境地はほんとうに大切なもので、「八正道」の最初の「正見」について「気持ちが楽になる見方」(本年五月号)とお話ししたことにも通じます。なにごとも楽しいと受けとめる──そういうものの見方を心がけていると、気持ちが楽になって、目先の苦に迷うことのない、ほんとうに安楽な人生を歩めるのです。

ところで、「八正道」の「正」という字は、「一」と「止」が組み合わさってできています。仏の教えの「一」といえば、もちろん「真理」であり「法」です。いわば「八正道」の各徳目は、いずれも私たちが「真理に止まる」ための実践であり、その基本となるのが初めにおかれた「正見」といえます。その意味でいえば、「八正道」のすべてを修めるのは荷が重いという人も、日々の暮らしのなかで、何かにつけ、ふと省みて「正見」に立ち返る習慣をつけることが大事なのだと思います。とくに、ものごとに行き詰まったときとか、心苦しいときには、「一」つまり「真理」に帰る意味で目の前の現象を正しく見ていくと、何が心を悩ませ、どうすれば気持ちが楽になるのかがわかるのではないでしょうか。

こうして真理にそった生き方を求める仲間を、仏教では「正定聚」といいます。平たくいうと「仏さまのようになりたいと決意した仲間」のことですが、この言葉からは「正定」のとらえ方をさらに深めることができそうです。私たちはみな、お互いに生かし生かされています。そのなかで、仏の教えをとおして人間らしい生き方を学んだ私たちは、仏への道を歩みつつ、一人でも多くの人の仏性開顕という使命を果たしていきたいと思います。

平成三十年十一月度実践目標

2018.11.1

平成三十年十一月度実践目標

人さまの 幸せ願って 今に集中!

 

いよいよ、開祖さま生誕会の月を迎えました。開祖さまが佼成会を創立した意義をかみしめ、「報恩感謝」と新たなる「誓願」をさせて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは「思いやりを、いつも心に」です。次のようにご指導下さってます。

 

そろそろ温泉のぬくもりが恋しい季節になってきました。たっぷりの湯につかり、思わず「極楽、極楽」とつぶやく、そんな瞬間に安らぎを覚える人も多いことでしょう。心が安らかで楽しいとき、たとえそれが温泉につかっているときであっても、私たちは、思い煩いや恨みつらみといった感情を離れているのではないでしょうか。迷いやとらわれが心からするりとほどけ、何にも縛られない、安らかでのびのびとした自分がそこにいます。

「仏」という漢字は、日本語で「ほとけ」と読み、執着・こだわりから解き放たれた「ほどける」が転じたものという説があります。ですから、ほんのひとときでも、安楽で、なんの心配もないときがあるとすれば、それはまさに自分を縛るものから離れた「仏の境地」といっていいのかもしれません。

ところで、仏教では、「心を常に正しい方向に向ける」ことが大切といわれます。これは、釈尊が最初の説法で説かれた「八正道」の七番目に示された「正念」のことです。ただ、「正しい方向とは何かが、よくわからない」というのが、多くの人の本音だと思います。端的にいえば、「仏」や「真理」に心を向けることですが、これも少しわかりにくいといわれそうです。そこで、私なりに理解するところでいうと、先にお話ししたような「心がほどけ、安らかで楽しいとき」こそ、心が正しい方向にあるといえると思うのです。

法華三部経の一つで仏説観普賢菩薩行法経に、「もろもろの迷いや煩いから離れ、安楽で淡々とした心を保ちたいのであれば」(常に涅槃の城に処し 安楽にして心たんぱくならんと欲せば)という、私たちにとっては願ってもない問いと、その答えともいうべき一節があります。それは、「当に大乗経を誦して 諸々の菩薩の母を念ずべし」。すなわち、

朝夕の読経を習慣とし、「慈悲、思いやりの心をもって生きよう」と願うことだというのです。

ときおり、「慈悲がなかなか身につかない」と嘆く人がいます。しかし、その人はまさに「思いやりをもって生きよう」「あの人を数ってあげられたら」と願っているからこそ、そのことで思い悩むのでしょう。つまり、その人はもうすでに、思いやりの心が身についているのです。また、「正念」の意味を「気づかい」「心くばり」と表現する人もいますが、茶道の裏千家前家元である千玄室師は、「『あなたがお幸せでありますように』、ただその

一念で相手に仕える」といわれます。雑念を捨て、自分の「いま」に集中する。さらに、自分の思いは差し置いて、人さまが喜ぶように、幸せでありますようにと願いつつ、心を

一つのことに向ける。それもまた、「正念」でありましょう。

平成三十年十月度実践目標

2018.10.1

法によって人を救う 精進こそ

            「仏性開顕」の 王道

 

十月四日、ご入寂された開祖さまを偲び、「追慕・讃歎・報恩感謝・継承・誓願」の心を新たにし、更なる布教伝道に邁進致します。

会長先生のテーマは「自他ともに心楽しい精進を」です。次のようにご指導下さってます。

 

紅葉してそれも散行く桜かな

暦の上では秋を迎えたこの時季の趣を、俳人の与謝蕪村がこのように詠んでいます。桜の葉が、ほかの樹木に先んじて色づき散るようすを描写した句ですが、春の花がみごとに咲き、散っていく姿を重ねあわせると、与えられた生をひたむきに全うする桜木のありように胸を打たれます。

「精進」の「精」の字は、米を搗いて白く(精白)することで、そのことから、純一無雑、

つまり、まじり気のない前向きな生き方をすることを精進といいます。

そう考えると、冒頭の句のような、桜の葉が紅葉し、散るといった自然の営みは、すべてが精進のありようを示すお手本といえます。そして私たちも、絶えず創造・変化する自然の一部ですから、「天地自然の理に随って生きるように」と勤めることが精進であり、「八正道」に示される「正精進」とは、そのことをいうのではないでしょうか。

 

ただ、樹木と違って、私たち人間には自分本位の我が出ることがあります。好き嫌いや善し悪しなど自分のものさしがあり、目の前の現象を素直に受けとれなくなるときがあります。そのとき、心を真理にそわせていく工夫をこらすことが「精進する」ということで、その工夫、つまり、ときに応じた精進のあり方を、釈尊はさまざまに説き示されています。

拙著(『心田を耕す』)でもご紹介した誌偈のなかの、「恥じる」「内省する」「身と言葉を慎む」「過食しない」「真実を守る」「柔和」などの姿勢をとおして、ときどき顔をだす自分のわがままな心を反省したり、懺悔したりしながら本来の自分に帰るのです。ただし、やはりどれも気負って務めることではなく、むしろ自分もまわりの人も、ともに心楽しくなるような工夫ととらえてみてはどうでしょう。

少し言葉を慎むだけで調和が生まれ、柔和に接することで相手の心がほぐれます。腹八分目で体が楽なのは、だれもみな体験していることでしょう。「人の喜ぶことをしよう」「人に親しまれる自分になろう」「自分に恥じない行動をしよう」「人にはやさしく親切にしよう」「絶対に怒らない自分になろう」。このことを日々くり返し自分に言い聞かせ、ときには反省しながら仏道を歩む喜びを語っておられたのです。それは、精進をとおして本来の自分に出会う喜びだと思います。そして、この本来の自分とは、いうまでもなく仏性にほかなりません。

平成三十年九月度実践目標

2018.9.1

目の前の瞬間のふれ合いを大事に、

                惜しみなくつながる実践を!

 

慈悲の生涯貫かれた脇祖さまを偲び、報恩感謝の布教実践に邁進してまいります。

会長先生のテーマは、「あらゆる『いのち』に奉仕する」です。次のようにご指導下さってます。

 

私たちは、生きていくために必要な衣食住のそれぞれを、随時、手に入れなければなりません。そのことについて、仏教では「正しい生活法によってそれを求めるように」と説かれています。「八正道」の五番めに掲げられる「正命」のことですが、一般の社会で暮らす私たちにあてはめると、「正しい仕事によって生計を立てる」ということになります。ただ、さまざまな仕事に対して、正しいとか正しくないなどの区別はつけ兼ねることです。すると、「正しい仕事」の「正しい」とは、どういうことなのでしょうか。

「農民は作物に仕え、牧場主は牛に仕え、教育者は子どもに仕える」といった言葉を教えていただいたことがあります。「仕事」は漢字で「事に仕える」と書きますが、仕えるというのは偉大な存在に随うことですから、仕事の対象となる相手や物を尊び、敬い、感謝の念をもって、与えられた役割に一所懸命とりくむ ─ そのような姿勢が、「正しい」の意味するところだと私は受けとめています。あらゆるものを拝む気持ち、感謝の念は、仕事はもちろん、私たちの生活すべてにわたる「正しい」生き方の根本だということでしょう。そして、その気持ちがあれば、不平や不満を抱くことなく、素直に、喜びをもって目の前のことに打ち込むことができるのです。

 

仕事に限らず、日常生活で目の前のことに一所懸命に尽くすことが、「正しい命の使い方」ということもできそうです。家事や子育てはもちろん、人さまのお世話をすることや、あるいはお世話をしていただくことさえも、そのときその人に神仏から与えられた、いわば天命ともいえるお役ですから、それを素直に受けとめて、楽しくつとめることは「正しい命の使い方」にほかなりません。私たち一人ひとりが、暮らしのなかの小さなひとコマもおろそかにしないで、「正しい命の使い方」につとめればいいのです。すると、それはやがて大きなうねりとなって、釈尊の願われる世界を築く力となります。なぜなら、私たちはみな、物心ともに世界じゅうのあらゆる「いのち」と、網の目のようにつながっているからです。

本会の脇祖・長沼妙佼先生は、信者さんの救いに徹するなか、「朝寝坊がいけない」などの厳しい指導をされました。仏さまの教えは基本を大事にしてこそ輝き、信仰とは日々の暮らしそのものだということを教えられたのでしょう。

九月十日は、その脇祖さまの報恩会です。

平成三十年八月度実践目標

2018.8.1

 

 二つの心(仏性)が、いつも向かいあって

         「坐っている」ことを 忘れない!

 

夏本番、青少年育成月間の月に斉家を基本にして、家庭・社会・国家・世界の平和境目指して平和祈願の月の実践してまいりたいと思います。

会長先生のテーマは「敬う心 と 恥じる心」です。次のようにご指導下さってます。

 

今月は「八正道」の「正行」について考えてみましょう。

「正行」は、仏教の辞典で「正業(正しい行ない)」とも示され、「身・口・意の三業」といわれるうちの、「身の行ない」(身業)における正しいあり方のことです。ちなみに本誌

の六、七月号でお伝えした「正思」と「正語」も、それぞれ三業の一つである、心による行為(意業)と、言葉による行為(口業)の正しいあり方ということになります。

それでは、正しい身の行ないとはどういうことでしょうか。解説書には、不殺生、不偸盗、不邪淫の三つ、すなわち「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪な男女関係を結ばない」ことが、正しい身の行ないとあります。

釈尊は、私たちがこの世で味わう苦から解放される道を悟られた方ですが、何が苦悩の原因となるのかを見極められたうえで、これらを示されたのでしょう。その意味では、戒めというよりも、私たちが日々を明るく、楽しく生きるための助言と受けとめるほうが自然に思えます。「このことを忘れなければ家庭も社会も平和で、楽に生きられますよ」という、釈尊からの温かなアドバイスということです。

 

「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪な男女関係を結ばない」ことが正しい身の行ない~~確かに、それは正しいに違いなく、殺生や盗みは法律にふれる対象でもあります。それでも、「してはならない」という禁止事項が「正しい行ない」といわれると、心理的に「正行」のハードルが高く感じられます。そうであれば、「戒律を守らなければならない」と意識する以前に、いつでも自然に、「苦悩しないですむような行ない(正行)をせずにはいられない」ようになればいいのです。

そこでキーワードになるのは、敬う心と恥じる心です。

敬う心と恥じる心は、進歩・向上を求める人間の本能に通じるともいわれます。すると、つい我を忘れて道を踏みはずしそうになる私たちを、本来の人間らしい生き方に立ち戻らせるのも、この二つの心といえましょう。「正しい行ない」とは、「敬と恥」の二つに支えられたふるまいということができそうですが、その心と行ないは、日ごろの人間関係から国家の関係に至るまで、そこに和を築く大切なものです。それは、道を見失いがちなあらゆる場面でいま、大きな力を発揮するものだとも思うのです。

 

平成三十年七月度実践目標

2018.7.1

信じて尋ね、信じて言い切る言葉こそ 真実の慈悲!

 

盂蘭盆会の月を迎えました。

利供養・敬供養・行供養を通し、ご先祖さまに真心からの回向させて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは「和らぎをもたらす言葉」です。次のようにご指導下さってます。

 

釈尊の基本的な教えである「八正道」の一つに「正語」があります。真理にかなう言葉を語るということですが、私たちはふだん、そのように「正しく語る」ことを、ほとんど意識していないのではないでしょうか。「正語」を実践するうえで大事なのは、何をどう話すかということよりも、正直に生きる誠実さを忘れないことなのかもしれません。

言葉の内容ではなく、対話する相手と向きあう姿勢ということで思い起こすのは、ノーベル平和賞の選考委員も務められた、ノルウェー国教会オスロ名誉司教のグナール・スタルセット師(第三十回庭野平和賞受賞者)です。スタルセット師は、国際会議の席で意見が分かれるようなときでも、その場をじつにうまくまとめていかれます。とはいえ、師が饒舌なのではありません。むしろ、寡黙なかたです。さまざまな声にじっくりと耳を傾け、求められれば穏やかに見解を述べつつ、最後に「では、このようにしてはどうでしょうか」と、みなさんに諮るのです。

立場の違う人が集まる席では、議論が紛糾することもあります。そこに調和をもたらすのは、人の意見をよく聞いて思いを酌みとる姿勢と、自我を抑えた公平な態度から発せられる言葉だということでしょう。師の示すこの姿勢には「正語」の意味あいの核心が示されていると思うのです。

 

日本語で、漢字の「愛」は「かなし」といいます。愛する、慈しむということは、悲しむということであります。母親がわが子を愛おしむ心、といえばわかりやすいかもしれません。

「正語」、すなわち「正しく語る」ということのなかには、そうした慈しみ、悲しむ心と、相手の幸せを念ずる情が籠められているのではないでしょうか。

「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」とは道元禅師の言葉ですが、スタルセット師の言葉には、宗教者に共通する慈愛の念が籠められており、だからこそだれにも受け入れられるのだと思います。そういえば、良寛さんが放蕩三昧の甥を改心させたのは、説諭の言葉でも叱責でもなく、甥を思って流したひと筋の涙でした。慈愛に満ちた沈黙によって伝わる「正語」もあるということです。

私たちの幸せをだれよりも念じてくださる両親やご先祖の愛心を、まもなく開花を迎える清らかな蓮華を愛でながら、この盂蘭盆の時期にあらためてかみしめてみるのもいいのではないでしょうか。