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まほろば 奈良教会長コラム

平成27年4月度実践目標

2015.4.1


 降誕会に私たちの『いのち』を見つめ直し、 


                ともに智慧の心を起こさしめる法座修行を! 


 


今月の会長法話のテーマは、未熟を自覚するです。 


さわやかな桜の季節となりました。幸せの基に気づく布教伝道とは? 会長先生は、次のようにご指導くださっています。 


・無量義經に、愚痴多き者には、智慧の心を起こさしめという一節があります。愚痴とは、未熟なために自分の見識や欲望にとらわれる愚かさのことですが、それが智慧の心によって無限の可能性を開く扉になるというのです。 


 未熟さや愚かさは、それを自覚すれば、いつでも向上のきっかけになります。ところが、わかっているという思い上がり・憍慢によって、私たちはみずから向上の芽を摘んでしまいがちなのです。 


 そうならないための智慧の心」とは何かといえば、それは「生かされている」という人間としての本然の気づきだと思います。それをとおして謙虚に、素直になるとき、あらゆる可能性の扉が開かれるのです。 


・親鸞上人は愚禿と称し、良寛禅師は大愚というなど、祖師や名僧のなかには、みずから私は愚かだと名のった人が少なからずいます。これも私ほど未熟で愚かな者はいないとつねに自分に言い聞かせて、驕りや目先の欲に傾く心を戒めたのでしょう。宗教の世界は、自己の内面を深く見つめていくものだからです。 


・一見、否定的とも思える未熟さや愚かさの自覚ですが、私たちの向上や成熟を助ける飛躍台となる、大切なことなのです。さらにその自覚は、生かされているという智慧とも相まって、人に対するやさしさや思いやりにつながり、そうして人と相和して暮らすことがほんとうの幸せの基にもなるのです。 


・伝教大師最澄は、若いころの著述で私は愚者のなかの最も愚かなる者といっています。この自覚から次のような大きな志を打ち立てます。 


「私は仏に誓います。悟りによって得られた美味も、安楽の果実も、けっして独りでは味わいません。真理の世界に生きるすべての人とともに悟りの境地に至り、真理の世界に生きるすべての人とともに、悟りの妙味を楽しみたい」このことを端的にあらわすのが、「忘己利他」~己を忘れて他を利する~という教えです。 


・私たちは、愚かさを内に抱えながらそのままに、まさに「いのちいっぱい」生きるとき、大きな花が開くのだと思います。

平成27年3月度実践目標

2015.3.1

「いまが青春」の気概をもって、
一人でも多くの幸せを願う創立の精神を胸に精進いたしましょう。
 .
今月の会長法話のテーマは、『季節の行事に親しむ』です。

三月五日は、立正佼成会の創立七十七周年記念日です。
今月は、本会が創立された精神をしっかり心に刻み、
会員としての自覚と誇りをかみしめ、
布教してまいりたいと思います。
どのような心で精進させて頂ければ、良いのでしょうか?

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・春、三月の行事といえば、ひなまつりに卒業式、お彼岸、春分の日、
そして本会では三月五日が創立記念日に当たります。

では、たとえば春分の日を私たちはどのようにすごしているかというと、
多くの人が国民の祝日の一つと受けとめ、
いつもの休日と変わりなくすごしているのではないかと思います。

この日は、「自然をたたえ、生物を慈しむ日」とありますが、
こうした意義をかみしめて、すごしている人は、あまり見受けられません。

私たちの生活、そして人生は、無常迅速といわれるように、
時々刻々と変化しています。

・そうしたなかで、私たちがうっかり見過ごしていることに気づかせ、
マンネリから抜けだすきっかけとなり、弾みとなるのが、
季節の行事や国民の祝日だと思うのです。
先の春分の日であれば、その意義や由来を知ることで国の文化や伝統を再認識し、
あらためて母国に誇りや愛着を覚える人もいることでしょう。
また、「いよいよ春の到来。自然を愛し、素朴に生きよう」
と心に弾みがつき、前に進む力がわく人がいるかもしれません。

こうしてかみしめ、味わうと、何気ない休日が、
大きな気づきや成長につながる貴重な一日となります。

・仏教者には、目にした自然の営みをとおして無常を観じ、
そこにあるがままの生き方を受けとめて詠んだ和歌や俳句が知られています。
道元禅師は、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と、
端的に自然美とこの世の実相を示されています。

このような詩歌にふれると、季節ごとの行事や四季折々の風物は、
すべての人と自然が織りなす「いのち」の営みとわかります。
つまり行事を楽しんだり自然を愛でたりするのは、
そこに息づく「いのち」を味わい、慈しむことであり、それはまた、
風物や行事をとおして説かれる神仏の声を聴かせていただくことでもあるのです。

平成27年2月度実践目標

2015.2.3

お釈迦さまの布教伝道に学び、
「させていただく」を心に止めて、人さまに喜ばれる私になりましょう。

 *  * *  * *  * *  * *  * *  * *  * *  * *  * *  *
 

 今月の会長法話のテーマは、『「生きている!」という実感』です。
涅槃会を機に釈尊のご生涯に学び、いよいよ布教伝道に、まい進してまいりたいと思います。
 会長先生は、次のようにご指導くださっています。

 

・私たちはふだん、朝起きてから夜眠りにつくまで、漫然と時をすごすことがままあります。おそらくほとんどの人が、自らの行動をあまりよく気に留めないまま一日を送り、また当たり前のように翌日を迎えます。そのことで何か大きな不都合があるわけではありませんが、ただ、昨今「生きている実感や喜びがわかない」「生きる意味がわからない」といった言葉を聞くにつけ、漫然とすごしがちな日常のなかで、何が生きている実感や喜びにつながるのかを考えさせられるのも事実です。

 

・タイのお寺で修行に励む日本人僧、プラユキ・ナラテボー師のご著書のなかに、
「目が覚める。だがすぐには起き上がらない。まず身体の姿勢を確認してみる。起きがけの気分を味わってみる。その動きを観察しながら、今ここの感覚を味わう」
このように行動の一つ一つを見つめていくとき、そこには何かしら気づきがあります。さまざまな気づきをとおして生きていることを実感すると、ふれあうものすべてが感謝と慈しみの対象になっていきます。
 仏教では「いま・ここ」を大事にします。いま命あることの有り難さを知り、感謝して生きるところに幸せがあります。自分の「いま・ここ」に心を向けて観察すれば、生きている実感として、喜びと感動を味わえるのです。

 

・世間には、ほんとうにつらい思いをされて世をはかなみ、生きていることが苦痛にさえ感じるという人もいます。ただ、もし身近にそのような人がいて、元気になってほしいと願うのであれば、その人にとって負担にならない程度の頼みごとをしてみてはどうでしょうか。 私たちは、人に喜ばれることで生きがいを感じたり、生きる力がわいてくるのです。

 

・本会では、何かを行う際に、「する」ではなく「させていただく」という表現をよく使います。「させていただく」というとき、私たちは謙虚な気持ちになります。そういえるのは、あらゆるご縁のおかげで生かされていることを自覚すればこそではないでしょうか。常に謙虚でいられるという意味で、「させていただく」はとても意味深い表現だと思うのです。
 今月は、涅槃会を迎えますが、ご入滅の直前まで布教伝道に歩かれた釈尊のように、私たちも怠ることなくいまを精いっぱい生き、大いに生きる喜びを味わいたいとおもいます。

 

平成27年1月度実践目標

2014.12.30

「“大いなるいのちに連なる家族”を認識し、ともに、思いやりを発揮しよう」

 

今月の会長法話のテーマは、「家族とともに、心豊かに」です。

新たな年を迎え、今年こそ“心豊かに”という気持ちで、悦びの日々を送りたいと願うところです。どこに心を置いて日々、精進していけばよいのでしょうか?

会長先生は、次のようにご指導くださっています。

 

・結婚式やお正月など、祝いごとで家族や親戚が集まるのは、楽しいものです。そのときの時親しみや、くつろいだ雰囲気は格別で、それはおそらく、どこの家庭も共通するのではないでしょうか。

思想家の安岡正篤師は、「家庭はもはや分割を許されない社会的細胞であり、愛情の小世界」といい、その「愛情の小世界の中で、家族や親戚や隣人、客人に交わって、好ましい社会的訓練を受けさせる」ことが人間教育には、必要と明言しています。この言葉のように、たくさんの人が集まる機会の多い年末年始は、豊かな心を育む大切な機会といえそうです。

 

・心の豊かさ、安らぎ、充足感、救い。これらは、おそらく愛情の小世界たる家庭だからこそ得られるもので、それは母親の背におぶわれた幼い日の、あの肌のぬくもりからくる信頼感や安心感に通じるような気がします。

年頭にあたって家族や親戚が会話とふれあい愉しむなか、お互いに心の栄養を補給しあうという重要な意味あいがあるのかもしれません。

 

・では、どのような会話やふれあいが心の豊かさや安らぎを家庭にもたらすのか。

私は「無財の七施」がポイントになるとおもいます。とくに笑顔(和顔悦色施)と、思いやりのこもったやさしい眼差し(眼施)や言葉がけ(言辞施)が大事だと思うのです。親が子や孫に、あるいは子や孫が親や祖父母に笑顔で接し、お互いを思いやれる家庭こそが真に豊かなのです。年長者が率先して相手を尊重し、いつでも謙虚に「ありがとう」と感謝の言葉を口にするような、日々の姿勢のなかにあります。

 

・ところで、なかには、残念ながら、仕事の関係などから、現実の生活環境の下では家族との会話ができないという人もいます。しかし、私たちはみな、大いなるいのちに連なる兄弟姉妹です。その意味では、誰もが家族の一員であり、親戚にほかなりません。

 

今月は、家庭を出発点に、ともに、やさしさ、あたたかさを発揮し、「だれもが家族の一員」と、いのちのつながりを認識しながら、地域全体に思いやりを広げてまいりましょう。

平成26年11月度実践目標

2014.11.3

「ご縁を水の流れのように素直に受け入れ、心の器を大きくしていこう」

今月は開祖さま生誕会の月です。求道の心得として、「師を求むるにあらず。師の求むるところを求む」と教えていただきます。開祖さまが求められた「すべての人が救われる」とは、一体どのようなことだったのでしょうか?

今月はこのことについて会長先生がご指導くださっているように思います。

・事の大小や軽重(けいちょう)などの思いをもたず、なにごとも素直に受け入れることで、一つ一つの「自我」(じが)をとり去ることになり、心の器を大きくしていけます。

 

人生において自分の思いや力がおよぼす影響はゼロに等しいともいわれます。縁起(えんぎ)、つまりあらゆるものとの関係によって人生は成り立ち、ふれる縁しだいでどのようにも変化するのですから、たとえみずから選択する場面があったとしても、それも縁の作用の一つ、大いなる「はからい」の世界といえそうです。だからこそ、めぐってきたご縁は、水の流れのようにさらさらと素直に受け入れていくことが自然です。

・厳(きび)しい現実やつらく悲しいできごとはなかなか受け入れられないものですが、法華経(ほけきょう)に「諸仏の法是(かく)の如(ごと)く 万億(まんのく)の方便(ほうべん)を以(もっ)て 宜(よろ)しきに随(したが)って法を説(と)きたもう」とあるとおり、仏さまはそれぞれにふさわしい方法で説示(せつじ)してくださっているのです。

そのことがわかれば、たとえ苦難に見舞われても、また大役を任されても、それらはみな学びの機会ととらえることができ、前向きに受け入れられるでしょう。

・ただそういうときにはできれば明るく素直に受けたいものです。お椀(わん)を上向きに開くように心を開いて受け入れると、心は明るく豊かになりますが、それを伏せてしまうと心も閉ざされてしまいます。

・日常生活においては、いつでも、「はい」と答える素直さが大切です。

「はい」という素直な返事は、あれこれ考える小さな自我を超えた、本来の仏性(ぶっしょう)そのものといえるからです。

 今月も、一見不都合と思える目の前の人や目の前の出来事とのご縁がめぐってきたら、「×」にして拒否するのではなく、仏さまのはからいに悪い事があるはずがない、「○」しかない、と信じて、さらさらと浅瀬を流れる水のように、素直に受け入れ、心の器を大きくし、心を明るく豊かにする練習をさせていただきましょう。

 

 

平成26年10月度実践目標

2014.10.1

「心を落ちつけて食事に臨み、感謝を見いだし、身心ともにも健康になろう」

今年も「食欲の秋」を迎えました。日本ではいま、肥満や生活習慣病に悩む人もおおぜいいます。それは毎日の食事の習慣に起因するともいわれます。どのような習慣が身につくと健康になれるのでしょうか? 会長先生は次のようにご指導くださっています。

・「つねに心を落ちつけて、適量を知って食べる人は、苦しみが少なく、老いもゆるやかで、寿命をたもつのです」。 
これは釈尊のお言葉ですが、現代人にも通じる大事なことがここに教えられています。
 まず、欲望にふり回される人間の悲しさです。年齢に応じた適量を知り、一食一食、食べすぎない、ここに生き方の基本があると釈尊は示されたのです。
「つねに心を落ちつけて」とは、智慧(ちえ)に基づいてものごとを正しく観(み)たり、大きな視点でとらえることを意味しています。では、そのような目で目の前にある食事を見ると何が観えてくるのでしょうか。
 動植物の生命(いのち)をいただくという現実が、まずそこにあります。
それから、自然の恵みを育て、加工し、届けてくれる人のご苦労や、食事を作ってくれる人の思いも観えてきそうです。
 ある人は、貧しい生活のなかでも毎日ていねいにダシをとった味噌汁で、体の弱い自分に栄養をつけてくれた母親の思いをいま、一杯のお椀に感じるといいます。
 また、一膳のご飯を前にして、自然に食欲がわいてくる健康の有り難さを思う人がいるかもしれませんし、一日に一度の食事もとれない人びとに思いを馳(は)せ、自分の現在の幸福を味わい直す人も少なくないでしょう。そして、自分はそのような人のために何ができるだろうか、と。

・惰性(だせい)で流しこむように食べるのではなく、心を落ちつけて食事に臨(のぞ)むとき、私たちは感謝にめざめるのです。感謝は生命を尊(とうと)ぶ心を養(やしな)うなど、心の健康の原点であるのはいうまでもありません。

・わが家では賞味期限の迫(せま)ったものを購入するように努めています。そうすれば、期限切れで廃棄(はいき)されるものが一つでも減ると思うからですが、そのような実践も少食の動機づけの一つになるかもしれません。
 また、本会で食事の前に唱える「食前感謝のことば」は、欲に走りやすい私たちが、大切なことを思い出すきっかけになることでしょう。
「仏さま 自然の恵み 多くの人に 感謝して いただきます」と声に出して心をととのえ、食事を楽しく味わう。毎日のことだからこそ、健康的な習慣が大事なのです。

 今月は、心を落ちつけて食事に臨み、毎日「食前感謝の言葉」を唱え、目の前の人や出来事のなかに、有り難いこと・感謝を見いだす練習を重ね、身体(からだ)も心も健康になりましょう。

平成26年9月度実践目標

2014.8.31


「神仏の恩恵に感謝し、謙虚に、悦びの言葉を伝えていこう」

 今年は「悦びを伝えよう」を合言葉に、私たち会員の今生の目標である「明るく」「優しく」「温かい」自分づくりに取り組んできましたが、悦びが相手の心に届くのは難しかったのではないでしょうか。どのようにすれば、それができるようになるのでしょうか?    
会長先生は、次のようにご指導くださっています。

・私たち人間は、生きとし生けるもののなかで唯一、言葉をもつ存在です。私たちが仏法に巡りあえたのも、およそ二千五百年前から、多くの人びとが言葉によって真理・法を伝えてくださったおかげにほかなりません。その恩恵をこうむるからこそ人間らしい生き方ができ、仏道を歩むことができる有り難さを、私たちは当たり前のようにしてすごしています。
真理に随(したが)ってものごとを見ること(智慧)も、その智慧にもとづいて人々に安心を与える慈悲の行ないも、言葉を使うことができるという恩恵を最大限に生かすことといえるかもしれません。
 その意味でも、私たちはいま一度、言葉の有り難さをかみしめ、神仏からの贈りものをとおして周囲をいっそう思いやることが大切です。そして、それはそのまま法を伝えることになります。

・私たちは、言葉をはじめ人間に与えられた恩恵に対する感謝を忘れてはなりません。では、そのために何をすればいいかというと、まず「自分」を見失わないことです。
 全体のなかのほんのわずかな人間、神仏に生されている自分、この自覚に立つと、口にする言葉にも自ずから「ありがとう」や「おかげさま」という感謝の心がこもります。人と人の心をつなぐのは、こうした感謝の言葉であります。

 ただ、ここでもう一つ大切な点を付け加えれば、それはどのような言葉が大事かではなく、どのような自分がその言葉を発しているのかという点です。端的にいうと、いっていることとやっていることが一致しているかどうか……言葉が相手の心に届くかどうかはそこにかかっているのだと思います。人が信ずるに足る言葉とは、発するその人がどのような生き方をしているかによります。

・また私たちは、仏さまの眼から見れば、ほんのわずかなことしか知り得ない未熟者ですから、人と話すときにはつねに謙虚であることを忘れてはならないでしょう。

 今月は、唯一言葉を使える存在であること、生かされていることをしみじみと味わいながら、一見不都合と思う目の前の人や出来事のなかにも、恵まれていること・有り難いこと・感謝を見いだし、人にもその受けとめ方の悦びを謙虚に伝えていきましょう。

平成26年8月度実践目標

2014.7.31

「『暑いときには暑いのがいい』」と夏を豊かに味わってすごしていこう」

 夏真っ盛りになっていますが、つらく、身にこたえる夏の暑さをしのぎ、乗り越えていくのに、どのような工夫をしていますか? 仏教は、どのように乗り越えることを教えてくださっているのでしょうか? 会長先生は次のようにご指導くださっています。

・夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を離れて涼(すず)しい悟りの味 わいを得たいと願うがよい」とは華厳経の一節ですが、そう願えば涼しくなるというよりも、心の持ち方一つで、たとえ同じ気温でも感じ方が変わることを教えているのだと思います。

 たとえば、暑さを忘れるほど何かに没頭するというのもその一つです。

 ちなみに、体温を下げるという意味では少食を心がけることが大切でしょう。

・ある教育者が、夏に「『暑い、暑い』と不平をいうのはやめよう」とおっしゃっていました。暑いと口にすることでますます暑さにとらわれることへの戒めであり、暑さを忘れる一つの方法だったように思います。

・夏が暑いのは当たり前のことです。それなのに、その暑さを嫌うことが自分を苦しめているということはないでしょうか。自然のはたらきを素直に受け入れられず、かえって暑さに縛られ、いっそうつらく感じるのです。

「いやだな」という気持ちを超えることができれば、そしてさらにもう一歩進めて、暑さに対する見方・考え方を広げてみれば、その感じ方がまた大きく変わってきます。

 先の教育者は、「この酷暑がお米をはじめたくさんの秋の実りを育ててくれる」といい、「暑い夏に感謝しよう」ともいわれました。

 いやだなと思うことに対して感謝する……それは、苦手なことや嫌いなものを受け入れ、味わうことです。この感謝の念(こころ)が、本会の会歌の一節「涼やかに生きる明るさ」や「涼しい悟りの味わい」につながる智慧ではないでしょうか。

 ・日本に昔から伝わる打ち水の習慣や緑陰(りょくいん)に憩(いこ)うといった生活の知恵を生かし、簡素な暮らしを大切にしながら、「暑いときには暑いのがいい」と夏を豊かに味わってすごしたいと思います。

 奈良教会では、明るく・優しく・温かい人間を目指して、一見不都合な目の前の人やできごとを「×」とみて不平を言うのではなく、真っ白で見て、受け容れ、そのなかに、有難いこと・「○」を見いだし、悦びを相手に伝える、そしてそういう努力をする仲間を増やしていくことに取り組んでいます。

 今月はその学びの実践として、暑い夏を「×」にせず、そのまま受け入れ、夏の暑さのなかに有難いことを見いだし、悦びを味わって豊かにすごしていきましょう。

平成26年7月度実践目標

2014.7.1

「いま、すぐ」を心がけ、縁に随(したが)う素直な生き方を身につけよう

 私たち会員は、明るく・優しく・温かい人間になることを今生(こんじょう)の目標にしていますが、毎日の忙しさに追われ、なかなか実践できず、目標さえも忘れてしまうことはないでしょうか。この志を持ち続け、目標に向かって着実に歩むために、何か自分の決めたことを、日頃の生活の中で必ず行っていけるようになるには、どのようなことが大事なのでしょうか?

 会長先生は次のようにご指導くださっています。

・正受老人と呼ばれる禅僧の有名な言葉に「一大事と申すは、今日ただいまの心なり」があります。一日一日に真(まこと)を尽くすこと、そのためにも「今日ただいま」を大事に生きること、それを怠って先のことを考えても人生はおろか翌日すらないというのです。ところが、私たちは、頭ではわかっていても、実際には、「朝夕のご供養をつづけよう」とか「禁煙するぞ」といいながら、結局「あしたから」と先延ばしにし、「きょう」や「いま」をおろそかにしがちなのです。

いつ何が起きるかわからない無常の世の中にあって、「いま」をおろそかにするのは、いのちの無駄遣(むだづか)いといえるかもしれません。

・では、どうすれば「いま」を大事にできるかを考えてみましょう。

 葉隠(はがくれ)という書物に「跡(あと)見よソワカ」という言葉が見られます。「跡をよく見なさい」と自問して行動をふり返り、「忘れていることはないか」「やるべきことを実行したか」と反芻(はんすう)するのです。こうした真言を唱えてみてはどうでしょうか。

 あるいは、多くの人の前で決意を語るのも一つの方法です。

 このほかにも方法はありそうですが、「思い立ったが吉日」という言葉どおり、昔から「時」を逃(のが)さず「いま、すぐ」にとりくむことが大事といわれるのは、何かを決断したり思い立ったりしたとき、その縁に随(したが)って素直に実践することが真理にかなった生き方といえるからです。逆にいえば、「いま、すぐ」を心がけると、おのずから真理に随順する生き方ができるということです。

 

 ・正受老人は、目の前のこと、そしてその日一日に真を尽くすと「精神すこやかにして、養生の要を得たり」といっています。禁煙も含め、健康を考えるうえでも「いま、すぐ」は大事な姿勢だといえそうです。

 奈良教会では、明るく・優しく・温かい人間になるために、一見不都合な目の前の人やできごとを「×」とみて不平を言うのではなく、真っ白で見て、そのなかに、有難いこと・「○」を見いだし、悦びを相手に伝える、そしてそういう努力をする人を増やしていくことを目標に掲げてきました。さあ、そのことを日頃の生活の中で「いま、すぐ」させていただき、縁に随って素直に実践する生き方を身につけていきましょう。

平成26年6月度実践目標

2014.6.1

「地域の人びとに悦びを運ぶ私たちになろう」

 私たちは、「この人」にご法の悦びをお伝えしたい、ご法の縁にふれてもらいたい、楽(らく)になってもらいたい、という「意中の人」をつくり、取り組んでいますが、なかなか容易ではありません。ご法の悦び・法悦をお伝えするには、どのようなことを心がければいいのでしょうか?

 会長先生は次のようにご指導くださっています。

・自分が味わった悦びや感激を人に伝えるのは、生あるもののなかで唯一、言葉を通して悦びを他と分かちあえ、共感できる人間ですから、それはつまり自他一体観を生きることであるといえるのです。

・信仰で味わう「法悦」というと、多くの人は自分とはかけ離れた崇高(すうこう)なことと思っています。そこで、この「法悦」を「感動」と言い換えてみてはどうでしょう。日常生活のなかで感動を味わう経験なら、だれにもありそうです。しかもけっして大げさなものでなくていいのです。  

 たとえば、人に親切にされて「ああ、うれしい」と感謝する。あるいは、苦手だと思っていた人と自分に共通点があるとわかり親近感を覚える。これらも一つの感動です。また、本を読んで感銘を受ける、人の体験を聞いて胸を打たれるというのもよくあることでしょう。

 こうした感動や悦びを素直に人に伝えることが、じつは法を伝えることに直結していくのです。

・善い行ないをしている人を見て「すばらしいなあ」と感激し、賛嘆する。仏教では、賛嘆することに大きな功徳(くどく)があるといいますが、その感激が人から人へと伝わり、伝え聞いた人がまた悦ぶときの功徳はなおいっそう大きいとされます。

「法は人によって弘(ひろ)まる」といわれるように、私たち一人ひとりの感動や悦びが、何よりも大切です。

・「言辞柔軟(ごんじにゅうなん)にして、衆の心を悦可(えっか)せしむ」…話す人も聞く人も、ともに深い悦びが得られるようなふれあいを心がけ、地域の人びとに悦びを運ぶ者でありたいと思います。

 毎日の同じことの繰り返しの中に、小さな感動や悦びを見いだす練習。そしてそれを素直に口に出して伝える練習。これが、私たちがずっと取り組んでいる、一見不都合な目の前の人や目の前の出来事、「×」(バツ)に思うことに不平不満をいうのではなく、その中にこそ、有難いこと、感謝、「○」(マル)を見いだし、口に出していく練習なのです。今月は、その練習を通して、地域の人びとに悦びを運ぶ私たちにならせていただきましょう。