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まほろば 奈良教会長コラム

令和二年一月度 ご法話を学んで

2020.1.8

新年あけましておめでとうございます。
皆さまに旧年中は大変お世話になりましたことと共に、元気に新たな年を迎えさせて頂きましたこと重ねて感謝申し上げます。

皆さまにおかれましても、年号も令和として初めての正月を迎え、今年こそ良い年にしようと心機一転これまでの自身を反省し、より良い自分づくりの決意を新たに過ごされているところと存じます。わたくしも昨年来、会長先生より振り返りの大切さと目標を持つことの意味を丁寧にお教えいただいておりましたおかげさまで、年末にまとまった反省を基に今年の菩薩行実践の決意を新たにさせて頂いております。

さて、年頭ご法話『尋常(つね日ごろをたずねる)』において、平和を実現するにはまず、家庭の中で宗教に基づく平和な心、人間性を養うことから、日々の信仰生活が平和に直結していることだとお示しいただきました。更に、教団計画大綱「令和二年次の方針」で私たちは創立100年に向けて「即是道場の精神」をもって修行すること、特に在家仏教徒は家庭、職場、学校、地域社会の自身のおかれたところで、一つひとつ手を抜かず、丁寧に、心を込めて取り組んでいくことで、良い習慣が身につき、自ずと身心が調うのだと教えてくださいました。その具体的な取り組みはというと「菩薩行」であり、「菩薩」とは自分が悟りを得たいのと同時に他の人々をも救いたいという心を起こした人であり、その心をどこにおいても忘れずに精進することが「菩薩行」である、そのような心もちが「即是道場の精神」でもあると受け止めさせて頂きました。この先生のお心を大切にして令和二年次の精進を決定させて頂きます。

そして、佼成一月号のご法話『ほんとうの自分に帰る』でも、年頭月の会長先生のお心として学ばせて頂きます。前段「一年をどうすごすか」で新たな一年を迎えた私たちの前には、まっさらな「時」が広がっているということは、これからの「時」は自分の心もち一つでどのようにもなるのだと思いますと、明るさと共に希望に満ちた誓願をもつことができるチャンスだと受け止めさせて頂きました。更に授学無学人記品に説かれている釈尊の一子である羅睺羅(らごら)の密行についてお教えいただきました。その羅睺羅とは、彼を見守る人々の苦心と、彼じしんの必死の努力によって、密行すなわち教団のさだめを守ることにおいては、もっとも綿密な修行者になられたそうです。ここに示された努力とはどのようなものであったかが、後段の「素直に、謙虚に」の中で、『先輩たちの指導や助言を聞き、謙虚になって、人が見ていないときでもひたすら教えを学び実践しつづけたからだと、私は思います。』とご指導いただきました。それは、年頭ご法話でもありました
「即是道場の精神」と受けとめる次第です。羅睺羅は王子であった身の上に甘んじることなく、法(教え)を継ぐことの人生的意義を摑まれたのちは、身を慎み、つねに「素直であろう」「謙虚であろう」と心してただただ静かに精進を重ねる姿勢が「密行」であり私たちも大切にさせて頂く努力の有り様ではないかと感じます。私たちが日々精進としているこの努力は何のためにするのかというと、本題にある「ほんとうの自分」に帰るため、人が生まれながらに授かっている仏性の有り難さにめざめ、貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)などの煩悩を離れるためであることを忘れずに目標としての人間性を養うことでもある優しく明るく温かい私となるためにお互いさま心新たに一年を皆様と共に精進の道を歩んでまいりたいと思います。皆さま今年一年どうぞよろしくお願い申し上げます。
合掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

『佼成』会長法話 1月号

令和元年十二月度 ご法話を学んで

2019.12.1

「弁を尽くす」

 

日々ありがとうございます。

先ずは、奈良教会発足四十六周年記念式典をお迎えし、奈良教会にお役をいただいて無事一年を終えることが出来ました。会員のみなさまをはじめ多くの方々に、ご支援ならびにご教導いただきましたことあらためまして感謝申し上げます。

 

今月は、『弁を尽くす』とご法話を頂戴しました。

聖書の有名な言葉から、前段の「言葉の力」では、言葉を使うことによって、私たち人間は心の成長・進化してきたとありそれは、『人間が生まれもって授かった心、すなわち「人」としての素朴な感情や意思を、言葉を使ってまわりの人に伝え、コミュニケーションを繰り返すなかで「人間らしい心」が育ってきたということです。』と言葉の発達に心の成長が追いつかないのか、心が退化しているのか、『言葉が人を傷つける道具として使われることも多いのです。』と、言葉の力はとても大きいという理解が深まれば、『いまは、沈黙のうちに自らを省みることの方が重要なのかもしれません。』と受け止めさせて頂きました。コミュニケーションの大きな手段である言葉の使い方を考えることが、人とよりよい関係を築くために大切な要素であることを教えていただいたものと思います。

 

後段の「富楼那(ふるな)に学ぶ」で「五百弟子受記品」に説かれている説法第一といわれた(富楼那ほど言葉の力を最大限に駆使し、発揮できるものはいない)と称える一節で、「この人に幸せになってもらいたい」という一心で教えを伝えた言葉は強く心に響いたとあり、立て板に水のように話すことではなく、『大事なのは、相手の顔が自然とほころぶような柔和な態度で、思いやりをもって言葉を交わすことです』とお示しいただきました。ここを学んで浮かんだ言葉は《相手の立場にたって和顔愛語(わげんあいご)》ということが大切なのではないかと思いました。

さらに、『作文の書き方に関する作家の井上ひさし氏の言葉ですが、「単純に、わかりやすく」「自分にしか書けないことを、自分の文章で」という二つが参考になります。』といただき、『自身の体験であれば自分の言葉で語ることができます。』と体験の大切さを示してくださいました。『味わった感動や気づきならば、素直に話せます。完璧な人はいませんから、教えのなんたるかがよくわからなくても、わからないまま、「ありがたい」「うれしい」という気持ちとともに、自分の理解に応じて話すことが、「大切なことをだれにもわかるように」伝えることなのです。』と教えて頂きました。私は、このことを伺って、過去先輩に言っていただいた言葉も合わせて思い出しました。それは、現在もそうですが教えの理解についてまだまだ自信がなく、不安でいっぱいだったころ、自分の中に湧き上がった感動や気持ちは、誰のものでもなく私の中にある事実なのだから、自信をもって話すことができるのだと、言っていただいた言葉が、その後のターニングポイントとなり、せめて理解できたことだけでも精一杯感動をもってお伝えしよう、という決意ができて日々精進の心構えの軸が少しずつ強くなることができました。

 

最後に『今年、あなたはどのような感動を味わったでしょうか。そして、どんな「大切なこと」を人にお伝えしますか。』と投げ掛けを頂戴しました。ここでは、私の中にある感動を見つけ、伝えたいと思える方に伝えたくなる気持ちにもならせていただきました。私は身近な家族と日々お出会いする皆さんに伝えたいと思います。改めて、会長先生の大いなるお慈悲の中に、入れて頂いている安心感と、全ての人の幸せを願って下さっているお心に報恩感謝で修行精進を決定して参りたいと存じます。令和二年次も今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

令和元年十一月度 ご法話を学んで

2019.11.1

「励まし」と「精進」

日々ありがとうございます。
この度は、第十六回奈良県宗教者フォーラム、並びに会長先生、奥様の奈良教会へのご来道について関係各所で記事や情報共有などによって取り上げて頂いております事は、奈良教会の会員にとっても嬉しいことでありますが、この機縁がその他の方々にとっても貴重なご縁であったことが時間を重ねれば重ねるほど深まりを感じる今日この頃です。このことを、奈良教会の宝として大切に引き継いで参りたいものです。

今月は、『「励まし」と「精進」』と題して、ご法話を頂戴しました。法華経の化城諭品の一節、「能く三界の獄より、諸の衆生を勉出したもう」から「勉出(めんすい)」とは「すすめ、励ます」こととして、「仏さまは、悩みや苦しみに満ちている世界(獄)から、無条件に出してくださるのではなく、教えによって真理を知らせ、そこから出ることを励ましすすめてくださる」ということと「教えにもとづくみずからの努力によって、苦悩の世界から出て行かなければならない」という開祖さまのお心をうけて、仏の教えに結縁した私たちは仏さまからの「励まし」を受けているのですから、苦悩の世界から出ていくための、みずからの実践が大事であるとお示しいただきました。

そこで、「《普回向》願わくはこの功徳を以て/普く一切に及ぼし/我等と衆生と/皆共に仏道を成ぜん」を私たちの生活にそって読み直すと「家族や友だちをはじめ、ふれあう人には、いつでもやさしくしよう。朝夕のご供養をとおして、自分の心と行ないを見つめよう。そうして多くの人の善き縁となり、善き友となって、ともどもにほんとうの幸せを味わおう」を大きな願いにもとづく身近な精進としてお教えいただきました。私は日ごろの生活において意識しつつ、自身の行動の基軸として持たせて頂いております。

次に、先の身近な精進としてお示しいただいた内容の最後にある、「善き友」について、お弟子の善き仲間といることは仏道の半ばであるかという問いに対して、釈尊は善き仲間といることは仏道のすべてであるという、法句経の一節ですが、「本当の友人いるか?」と問うてみますと、それぞれその時代で、その時必要な大事な友だちでしたけれども、ほんとに一生涯通して変わらない友情が保てるかというと、難しいことの方が多いように思います。時には私を叱ってくれるような、今でも私に忠告をしてくれるようなそんな友だちがいたら、幸せなことだと言えるのではないかと教えて頂いているものと思います。

続いて、後日この話を前置きとして、コーサラ国のパセーナディ王に大事な助言をしています。 「王さま、あなたは人びとの善き友、善き仲間として、率先して善きことにつとめ励むことです。すると、あなたがつとめ励む姿を見たり聞いたりした人はみな、王さまからどんな叱咤激励を受けるよりも強く、『私も怠らずに、つとめ励もう』と思うはずです」と説き示されたのです。これは、私たちへの助言でもあって、親が子に幸せを願って激励するとき、まず自分がどのような人間になりたいかという「心願」が大事ということに通じる説話であるそうです。ここまでのご指導の中で、「善きつとめ励む」ということが大切なキーワードであるようです。それは、暮らしの中にある当たり前のことを、なおざりにせずに日々を生きることで、いつでも当たり前のことを一つ一つ感謝して行ない、まわりの人と一緒に心を磨いて幸せを味わう。それが「精進」であり、「皆共に仏道を成ぜん」ということとお示しいただきました。化城諭品の中にもあるように私たちは時として怠け心が起こり、当たり前のことさえできないことがあります。そのとき、私たちを支えるのは志や願いです。と理想を思い描き目指すことができる人生の有り難さを、改めてかみしめさせて頂いたところであります。

最後に、すべての人にほんとうの幸せをと願う仏を理想とし、人びとの「善き友」でありたいと願ってという結びのお言葉に、会長先生の大いなるお慈悲の中に、入れて頂いている安心感と、全ての人の幸せを願って下さっているお心に報恩感謝で修行精進を決定して参りたいと存じます。今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌
奈良教会長 中村 浩士

令和元年十月度 ご法話を学んで

2019.10.1

 

「違い」があるからこそ

 

日々ありがとうございます。

この度は、第十六回奈良県宗教者フォーラムが皆様のご協力とご尽力によって無事に開催されました事、この場をお借りして御礼申し上げます。また、引き続き、会長先生、奥様の奈良教会へのご来道を賜り会員一同、新たに仏性開顕、修行精進、布教伝道の誓願の決定をさせて頂くことができましたこと重ねて感謝申し上げます。

 

今月は、『「仏」を供養する』と題して、ご法話を頂戴しましたが、特に前半の『なぜ「仏」がたくさんいるのか』の中で、『人間・釈尊が、悟りに至るまでに出会った人や、教えを受けた人、さらには、真理を伝える旅でふれあった人びと、そうした人たちすべてを「仏」と受けとめる見方に立って読むと、先の経文も違って見えてきます。』とお示しいただいたところを鑑みると、前出の奈良県宗教者フォーラムには、奈良県内の様々な教団、宗旨、宗派の著名な宗教者の方々が、奈良教会を会場としてご参集頂きました。その様は、法華経にもあるような、様々な方々との出会いによって、より良い自分となっていくために必要な出会いと観じることもできそうです。

更に、『日々に出会う一人ひとりを、釈尊に倣って「仏」と受けとめるとき、この経典の一節が、私たちの日常生活における実践課題として身に迫ってくるのではないでしょうか。』というお心を受けとめると、多くの人々との出会いとは、きっと何らかの意味があるのだと理解できるのではないでしょうか。

 

後半の『「供養」の基本は思いやり』の中で、『自分は本来、清浄な心をもつ仏なのだと自覚すれば、自分も仏、目の前にいる相手も仏ということで、それは、「出会う人はみな、すべて仏」と信じ、受けとめることにほかなりません。』とご指導いただいました。今、私と出会っている目の前の方は、私が人として向上していく上で必要な方であるという根本的な考え方にたどり着くことができるのではないかと存じます。

自身にとって必要な存在に対して、大切に思うのであれば「恭敬・尊重・讃歎」の気持ちを示す「供養」を行うことも不思議ではなく、むしろ当たり前の事とも言えます。では、その「供養」とは具体的にいうと、教えを実践することであり、釈尊のように慈悲の心で日々を送る。『人の悩み苦しみが少しでも少なるように、楽しみが多くなるようにと願って、人を思いやることです。』このことから、先にあったように、より良い自分となっていくために必要な出会いを繰り返すことで、思いやりがあふれる人間になるにつれ「仏」に近づくのでしょう。と締めてくださいました。

 

重ねになりますが、奈良県宗教者フォーラムに引き続き、翌日には、橿原神宮さまへの正式参拝もお手配いただき、その足で、奈良教会へのご来道を頂戴しました。四名の会員代表の功徳の発表をお聴きいただき、主席随行の澤田総務部長から奈良県における宗教協力のうねりの礎について教えていただき、奥様からも、当たり前のことを当たり前にできるようになることの大切さを教えて頂きました。

最後に、会長先生の大いなるお慈悲の中に、入れて頂いている安心感と、全ての人の幸せを願って下さっているお心に報恩感謝で修行精進を決定して参りたいと存じます。

今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

令和元年九月度

2019.9.1

令和元年九月度 ご法話を学んで

「違い」があるからこそ

 

日々ありがとうございます。

先般行われました、会議の機会に、大ベテランの先輩教会長さんに、現在、奈良教会として、取り組んでいる手どりPJについて、会員の皆さん方の取り組む姿勢について、ご自身の教会の方も学んだと仰っていただき、大変恐縮ですが、奈良教会の皆さんの努力を誉めて下さったように感じ、とても嬉しくその言葉を頂戴しました。誠にありがとうございました。

 

さて、今月は、『「違い」があるからこそ』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

前半の“みんなを愛おしむ心”では、紀貫之の恋歌一つを引き出され、その恋歌は「真実」を歌っていることを通して、『その「真実」とは、人はみな心の根底において、この世に存在するすべてのものを愛おしいと感じ、慈しんでいる、ということです。』と、しかしながら、現実にはそうとは言えない状況があることで悩み苦しんでいる。多くの人が、他人との違いを受け入れられずに無益な争いまでしていることを残念に感じて下さっていました。そんな中でも私たちに出来ることがあり、それは、「私の胸の内にも、この世のすべてのものごとを愛しいと感じ、慈しむ心がある」と自覚をすることです。と示してくださいました。

 

後半には、“「違い」がある意味と尊さ”にて、私たちは、一人ひとり異なる因と縁によって生まれてきているからこそ、どんな人も違いがあることは当然で、見方や考え方が違うことを排除することは、自分の個性を否定することと同じだと教えて頂きました。

宗教においても違いがあるということは、この地球に生きるすべての人に安心を与えるために、宗教、宗派のそれぞれの個性を発揮してお互い補い合っているのだとすれば、宗教は慈愛の一点においては一つに結ばれていることがわかり、私たちもその、はたらきかけによって菩薩の生き方に目覚めさせて頂いたことが理解できるのではないかと存じます。

会長先生のご体験から、意見の異なる人に出会ったときには、「私にはない考えをもっておられて、すばらしいな」感じられ、まだ知らないことばかりの自分であると教えられるのです。というお言葉から、私は最大級の謙虚さを学ばせて頂きました。

 

先日、電車移動をしているとき、空いている電車の連結部に近いシートに座ったときに、向かい側にはシュッとした会社員風の男性が足を前方に投げ出した足組状態で、スマートフォンを凝視している青年が座っており、連結部のドア前まで出た足に「行儀の悪い青年だな」と悪印象を感じていました。そこに少しふくよかなご婦人が、気にせずにドアを通過していきました。青年は足を引いて通したのですが、ご婦人はドアを開けっぱなしのまま通過して行ってしまいました。その瞬間、向かいの青年と同時に立ち上がり、私はドアを押して、青年はドアを引いて、ドアを閉めることになったことで、先程の悪印象は、どこかに行ってしまって、結構良い青年だという好印象に変わり、先ほどまでの事も、少し許せる気持ちになっていることに気がつきました。自身のご都合解釈に笑ってしまいましたが、会長先生のご法話にある、『違いを認め、受け入れ相和し』というところについてのヒントにもなるのではないかと思います。更に、ドアを同時に閉めた時に、お互いに会釈して感謝を表していたことを思い出して、『お互いに喜びあえるほうが幸せではないでしょうか』というご法話の様子に近いのではないかと思ったのでした。

この、出来事は一瞬の出来事でしたが、結びとしての『如来の説法は一相一味なり』という「薬草諭品」の一節のように、仏さまの教えは本質的にはひとつでありそのはたらきもひとつである(そのはたらきは、すべての人を仏の境地に導くこと)という仏意を感じる瞬間でした。電車を降りてからも、心が柔らかくなっている自分自身を感じながら駅を後にしました。是非ともそのような心境に皆さんにもなっていただき、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

令和元年八月度

2019.8.1

令和元年八月度 ご法話を学んで
自分の「宝」を輝かせる

日々ありがとうございます。七月二十一日に行われた第二十五回参議院選挙に際して、本会の政治に対する基本姿勢「五項目」(生命を守る、平和主義の推進、思想・良心・信教の自由を守る、政教分離の原則を守る、政治倫理の確立)を基に、日本の将来を考える機会としてそれぞれが主体的に取り組んで頂きましたこと感謝申し上げます。

今月は、『自分の「宝」を輝かせる』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。
ここ数年来、世間の論調として、自己肯定感の低い人が多くなってきているとの話を学んだことがありますが、会長先生より前項に「自信のもちにくい時代」についてお示しいただきました。他人と比べ羨ましさや劣等感を抱くことで口惜しさをバネに努力を重ね、能力を発揮して、向上を目指す人も多いのです。と逆境を糧に自己実現にたどり着くことが出来ることがあるが、仏教的価値観では、人と比べる見方がものごとを見る目をいかに曇らせるかを教えており、人をうらやむ気持ちが生まれても、必要以上の欲望や無益な憎しみに発展させないよう、心を制御(コントロール)することが大切なのだと教えて頂きました。

しかし、自身のまわりを見渡すと、劣等感を抱くあまり生きる自信を失くし、自分の価値を見出せないと苦悩している方が多く見受けられます。それは、法華経の信解品にある「長者窮子の譬え」のお話を引いて、自分は取るに足りない人間だという卑屈な思いを拭いきれないことであり、なぜ、そのように自信の持てないという人が増えているかというと、欲望を刺激する情報が過剰にあふれるなか、自身の将来像が、容易に推し量れる時代だから希望を待てないのではないかという投げ掛けを頂いたものと存じます。

後項では「仏性を輝かせる」として、人生は「縁」によってどのようにでも変化し、固定したままで存在するものは何一つないと教えて頂いているのに、自分は不幸だというレッテルを自分自身で貼りつけ苦しんで、自信や希望を失くしてしまっては、授かった命がもったいない。自分が不幸なのは世の中のせいだといった思いこみにとらわれると、成長の糧となるはずの劣等感は向上心の裏返しとはならず、向上心に結びつかないのではないかと教えて頂きました。

更に、長者窮子の譬えの終盤に、長者から財産のすべては、窮子(自分)の物だと告げられ、全ての財産(宝)は自分のものであるということを気づかされる瞬間は「すべての人が仏の子であり、仏と一体の仏性そのものです。だから、自信をもってその自分の宝(仏性)を輝かせなさい」との真意がこめられているということと合わせて、更に、「自らの宝に気づいて喜ぶだけではなく、まだそのことを知らない人に自分の気づきをお伝えしてその人の宝を照らす触れ合いをしていくと自分の「仏性」がより一層光り輝くことを教えるのです。」とまとめを頂きました。

先日、近畿支教区で青年男女部員練成会に責任者として参加させて頂きました。そこには、近畿のあちこちから集まった、青年の皆さんは様々な心境の中で参加して下さったことでしょう。その状況でも参加の青年たちは一生懸命に学びを深めていましたが、私自身今一つピリッとしない、なにか言いようのない雰囲気のまま、二日目の朝を迎えていました。その時、総責任者さんが、スタッフ皆さんの、人を救おうとする心に真剣に訴え、今この瞬間のご縁の大切さを諭されました。その後の、スタッフの触れ合い方が変わり、まるでスイッチが入った音が聞こえるようでした。それに呼応するように参加者にも、命の尊さを説いて下さり、このご縁によって会場全体が一つになっていく感覚を持ちました。

ずっと、私の中にあったスッキリしない気持ちは、この一体感だったのだと理解し、共に生かし生かされている仲間として認識できたことが、とてもありがたい練成となりました。このご縁がそれぞれの教会において更に拡がりを持っていくことを期待し、我が奈良教会の青年男女部の仲間がより一層一体となっていくことも期待できるものとなりました。最後に、今回のこの練成は、私に仏さまが顕して下さった説法であったと思います。

 

自身の存在価値の尊さを掴むことが出来れば、持ち前の力(個性)を発揮して、人を幸せにする行いに発展することができることをあらためて深めて頂きました。
青年のみならず、私たちサンガとのご縁もこちらの心持ち次第で、仏性を呼び覚ます出会いとなって、お互いに幸せを目指す仲間として歩いて行けると深く確信をさせて頂きました。その確信をお互いさま目指して、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌
奈良教会長 中村 浩士

令和元年七月度

2019.7.1

令和元年七月度 ご法話を学んで

「自由自在」に生きる
 

日々ありがとうございます。先日、近畿支教区が受け入れとして、全国の壮年幹部さんが参集され、壮年総会が開催されました。奈良教会においても、多くの壮年部さん方にお越しいただき奈良県中をご布教して下さいました。この場を借りて、様々な出会いをしてくださいました事に感謝申し上げます。

 

今月は、『「自由自在」に生きる』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

前項の【ほんとうの「自由」と「自在」】にて『私たちは、自分の思うままに行動出来ることを「自由」といい、それが「自在」な生き方だと思っています。』というお言葉に、あくまでも私のイメージですが、目の前には広大で遮るものが無いどこに向かうのも自分の気分次第でいかようにもなる状況を、自由自在なのだと漠然と思い描いていた期間が長くあったように思います。当然、現実では周りには好むと好まざるとにかかわらず、たくさんの人が存在していて、自分の思いどおりに出来ることが「自由」だと思っていると、自身ではままならない場面にぶつかる度に『不足、不満、苛立ち、苦しみを覚えることで、不自由な思いが募る』と、これは自由を求めながら、不自由を招いているのだと、教えて頂きました

 

後項では『【三界は我が有なり」の気持ちで】では「「智慧の楽」を与えて、ほんとうの自由自在な人生を送らせてあげよう」という仏さまのおこころについてお示しくださいました。

目の前に私に与えられた二つのおにぎりがあるとして、自分と別に四人のお腹を空かせた人がいたときに、自分のおにぎりを一人で食べたいと思う気持ち【貪り:むさぼり】、貰えなかった人たちの、恨んだり妬んだりする感情【瞋り:いかり】どちらも苦悩の一つです。

「智慧の楽」とは、その足りない分のおにぎりを仏さまにプレゼントしてもらうことではなく、『その不足が、もたらす苦悩を、自他の向上につながる楽しみや喜びとして受けとめられるようになることが「智慧の楽」ということです。』と学ばせて頂きました。

 

苦悩を楽しみに変えていくほんとうの「自由自在」な生き方とは、『目の前にある、小さな幸せをかみしめたり、喜びを人と分かちあったりすることで、苦悩を楽しみに変えていく』こととあわせて、「今此の三界は、皆是れ我が有なり」(この世界・宇宙は私のものです)という一節を紐解いて下さり、『私たちはそれぞれに独自の尊い命を生きながら、大自然の一部としてすべてと調和し、生かされています。それは宇宙全体が私と一体であり、我がものだということです。』と、全てが自分のもの、関係のあるものと捉えることができれば、お互いを尊重しつつ共に手を携えて、仲良く修行精進ができるのだと、受け止めさせて頂きました。それを噛みしめた時《すべては自分》という言葉の心境は、先のような気持ちのことを学んできたのではないかと改めて思い、日々の生活を見ている視野がとても広く感じることができました。

最後に、会長先生から先の、おにぎり二つは皆さんならどのようにされるでしょうか?とお尋ね頂きました。わたしは、先ずみんなで相談することにさせて頂こうと思います。改めて伺いますが、皆さんはどのようにされるでしょうか?

それでは、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

令和元年六月度実践目標

2019.6.1

「習学」仏の教えにそった生き方を身につけていこう!
         ~信仰に根ざした生活すべてが「習学」~

 

日々ありがとうございます。

今月は、『仏の教えを習い、学ぶ』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

前項の【「習学」は日常のなかに】では、法華経の方便品の中に見られる「習学」というキーワードについてお教えくださいました。

『仏さまは、たくさんの手だてを使って、常にそれぞれの人にふさわしい法を説いているのですが、「習学せざる者」は、そのことに気づくことができないというのです。』と投げ掛けてくださいました。しかし、逆に捉えると「習学」さえすることができれば、自分にとって必要な仏さまのメッセージに、気がつくことができるのだという、重要なポイントをお示しくださいました。

更に、その受けとめ方をエゴノキという植物を詠んだ句の表現、〈樹の声が溢れている〉という植物の存在や佇まいから様々な声(メッセージ)を語りかけられているように「樹の声」を受けとめる感性を磨くことの大切さと、そこで、『自然の摂理をはじめ、さまざまなできごとのなかに真理を感じとり、仏の声を聴こうとすることで、私たちは、自分の思い上がりや欲得ずくの考えを反省したり、生きる勇気を得たりして、また、新たな一歩を踏み出します。その繰り返しを「習学」というのです。』と、「習学」について教えて下さいました。

 

後項の、【実践してこそ「習学」】では、『日々、私たちの周囲で起こるできごとは、仏が「万億の方便」を駆使して説く法にほかなりません。受けとめようとする心があれば、だれでもそれに気づくことができます。』『ただ、「習学」は知識を得るものというよりも、実践を繰り返すなかで「仏の教えにそった生き方を身につけていく」ものです。』と、「習学」のあり方もご指導下さいました。それを、『困難なことに直面しても、そのことから「自分はいま、何を教えられているのか」を学び、前向きな実践につなげて、その生き方を自分のものにしていくのです。』と会員としての修行精進について教えて頂いたものと受けとめさせて頂きました。

しかし、私たちはいつも好調な心もちのままとはいかず、迷うことがあるときにも、私たちは、仏さまへ心を振りむけるに、「ご供養」、「導き・手どり・法座」、「ご法の習学」の三つを「基本信行」としていますが、ご供養も法座修行も「ご法の習学」の一環で、【信仰に根ざした生活すべてが「習学」に集約される】とまとめて下さいました。

 

このご法話を通して、私は、どんな時も、どんな状況下にあっても、いつも仏さまのメッセージを受けとめることができる自分づくりをしつつ、仏になる生き方として菩薩行と、三つの基本信行を欠かさず、様々な出来事に感謝のできる日々の大切さを学ばせて頂きました。

六月は令和元年度も半分が経過し、これから総決算に向かう下半期に入ってまいります。

お互いさま、「習学」の意味を理解し、なんのために修行し、どのように受けとめ、どんな自分となっていくのかを、あらためて深めてまいりましょう。

ご法話の最後にもあるとおり、私たちに菩薩の精神が宿っているとゆうことは、誰一人として自分だけが幸せになればいいと考える人はいないということにもつながり、このサンガの仲間を、更に広げていくために、法を伝えることも大事な「習学」と結んでいただきました。

 

先日の青年の日(五月一九日(日))において、東大寺の南大門前や各駅頭などで行われた、一食(いちじき)ユニセフ募金では、多くの方々にご支援いただき、おかげさまで貴重な出会いをたくさん頂戴しました。募金を入れたこともない青年が募金のお願いが出来るまでに心が変化し、人の役に立つ決意をしました。また、8歳の少女菩薩は炎天下の中でも募金活動を頑張りながら、自身も昼食を我慢して、世界の困っている友達のために献金をすることができました。青年さん方が超えた努力のハードルを、六月は壮年部さん方が超える順番となりました。いよいよ大阪で開催される壮年総会(六月二十九日(土)、三〇日(日))に向けて更なる、突破を期待しております。それでは、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士

 

令和元年五月度実践目標

2019.5.8

「苦」から逃げず、それをそのまま受入れてみよう!

  ~ 「苦」は「智慧」の湧き出る泉 ~

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天皇陛下の御即位心よりお慶び申し上げます。

四月三十日には天皇陛下がご退位され、五月一日には新たに新天皇としてご即位されました。いよいよ御代があらたまり、〈令和〉時代がはじまりました。この大慶を機に、皆さんと共にこの〈令和〉時代を【人格完成・世界平和】に向けて修行精進の道を歩んで参りたいと存じます。

今月は、『なぜ、苦しみが絶えないのか』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

自らを振り返ると、自身にとって都合のよいことであれば喜び、自身にとって都合の悪いことであれば落ち込むという一喜一憂して、感情や環境に振り回されている日々を過ごしていることが如何に多いことかと反省するばかりです。

更に、厄介なのは、自己中心性の強い考えが湧きあがっているときで、周りまで巻き込みお互いに苦労の絶えない関係となり、いつまでたっても苦からの脱出(幸せへの道筋)が見えないことを体験的に多くの方もご存知ではないかと存じます。

前項の【「苦」と「苦しみ」の違い】では、「四苦八苦」は良く耳にする言葉ですが、その内容は「生・老・病・死」の四つと「愛別離苦(愛するものと別れる苦)」・「怨憎会苦(憎い人やいやなものに会う苦)」・「求不得苦(求めるものが得られない苦)」・「五蘊盛苦(身心のはたらきによって生ずる苦)」の四つを加えて、人間が背負っている「苦」とお示しくださいました。

しかし、釈尊はこの「苦」を我々が理解している意味の「苦」ではなく、特に先の四苦八苦は『自分にはどうすることもできないこと』を示しているのであって、「苦」から「苦しみ」に変わるとは、思い通りにならない事実を受け入れることができないために苦しんでいると教えて頂きました。

後項の【「苦」は「智慧」の湧く泉】では、大事なこととして、「苦」を「苦しみ」へと増長させるのではなく、「苦」との出会いは「智慧」に目ざめるチャンスでもあると気づくことであり、『「苦」も、そこに感情をまじえなければ「無記」つまり善でも悪でもないのですから、それをどのように受けとめ、制御するかで、その後の人生に大きな違いが生まれます。』と教えて下さいました。更に、『「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。』そこから、この苦しみは私に必要があって与えられた試練だと受けとめると、私たちが本来もっている「智慧」がはたらきだし「苦」は楽しみにむかう大切な道しるべとなり、その「苦」も抜き去られることとなり

『これが、「苦」があっても苦しまない生き方といえるでしょう。』とお示しいただきました。

重ねて、私がご法話を学ばせて頂くに当たって、開祖さまのご著書「私の履歴書」の中で、「転迷開悟(てんめいかいご)」について記されていましたのでご紹介したいと思います。

『苦から救われたいと逃げ出したり、もがいたりせず、苦を直視し苦の中に足をしっかりつけることだ。それが落ち着くということの意味だろう。(中略)苦こそが、人を培い、育て、救うのである。これにハッと気づいた時を転迷開悟という。忌まわしくて、一刻も逃げ出したい、救われたいと思っていた苦や迷いが、一転して悟りを開く動機となる。』という一節のおかげさまで、より私の理解が深まりました。

ご法話の結びにあたり『苦しい思いをしなければ、仏さまの教えという「幸せにつながる道」に歩んでいないかもしれないのですから。』と結んでいただき、「苦」があったればこそ今(現状)につながっていることへの感謝を忘れないことも噛みしめてまいりたいものと学ばせて頂きました。私は、後項の中で「苦」から逃げずにそのまま受け入れる覚悟と「苦」が必要であったと、私自身が受けとめるために、〈○○のおかげさま〉とまずは、当てはめて考えるように心がけています。何事も、いきなりその場にたどり着いたのではなく、様々な事柄や出会いのおかげさまによって、たどり着いた今であると皆さんも感謝で受けとめてみてはいかがでしょうか。

最後に、『〈令和〉には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ』という意味が込められているそうですが、佼成会の〈佼〉の字は人と人の交流・調和を表徴するものと教えて頂いているところと捉えますと、サンガの結合を大事にしているこの教えが、特に重要になっていくのではないかと思わせて頂いています。あらためて、そのような時代を、皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

平成三十一年四月度実践目標

2019.4.3

「徳分」に気づけるように、素直で謙虚な人となろう

 

日々ありがとうございます。

四月一日には新しい元号が発表され、本当の意味で「平成最後の・・・」という言葉も大詰めとなりました。皆さまは新たな御代を迎えるこの時期をどのようにお過ごしでしょうか。

 

この平成という時代は、災害など大きな被害に見舞われるという、想像もしなかった事態におかれることもありました。しかし、戦争という先の悲劇に学び、大きな惨禍を招くことの無かった時代を共に過ごすことができました事は、何にも変えがたい大変幸せなことであったと存じます。この機会を踏まえ、新たな御代には更なる平和な世界を目指した精進を共に歩んでまいりたいものです。

 

今月は、『香る風のような人に』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。

生きとし生けるものすべてに活力が芽生え、寒さを越えた喜びを大いに発揮する季節の風によって春の訪れを実感することができるなど、いろいろな始まりを予感させるこの頃ではないかと拝察します。

 

そこで、会長先生より前項『心に香風がふきわたる』では法華経「序品」の「栴檀の香風 衆の心を悦可す」の一節をお示しいただき、開祖さまのご解釈から「仏さまの香風が衆生の心の中に入ってくると大歓喜が生じる」というところから、その教えを聞き、学び、実践していくことで、自身の価値観が自己中心性の受けとめ方であったことに気がつき、ほんとうに大切なことに気がつくことが、救われた実感であり、その気持ちは「大歓喜」であり、「悦可」していることと教えて頂きました。

 

後項『みんな「徳のある人」』では、人の心を「悦可」するには「徳分」が必要だと言われることが有り、その為には、自己の努力による善行の積み重ねが大事であるところも押さえてくださいましたが、私たちが今、現在尊い生命を授かっているには、大自然の徳をはじめ、まわりのありとあらゆる豊かな徳を具えているからこそ、気づき、それを成長させれば、だれもが香風を運ぶ「徳のある人」になるのだとお示しくださいました。

 

この度のご法話を学び、私は、心地よい雰囲気や世に言うオーラのように、その人が纏っている内面から醸しだすものを香風と表現して下さったのではないかと推察します。この人の傍にいるだけで心が癒される。あの人に出会うだけで嬉しくなる。などの体験をみなさんお持ちの事と思いますが、私もそのような香風を運ぶ人になれるとしたら・・・いかがでしょうか?その具体的な様子が、【何ごとにも感謝を忘れない素直で謙虚な人】であり、その香風を運ぶ人が、《明るく、やさしく、温かく》発する態度や言葉は、持ち前の徳をいっそう香らせ、この春の麗らかな風のように周りの人を憩わせるのだと受け止めさせて頂きました。

 

このことを踏まえ、あらためて、お釈迦さまのお生まれをお祝いする降誕の月である四月を以って、新年度を新たなスタートとして共々、切らせて頂きたいものと存じます。

最後に、現在各地で第一九回統一地方選挙が行われております。それぞれの地域のかじ取りを担う方をお選びする機会でありますが、今後の行く末を考える機会とも、とらえることができます。各地に香風を運んでくださいます方にお任せできるように、ひとり一人がよく考えての投票行動をお願い申し上げます。また、お出会いの方に香風を運ぶ、働きを目指して元気に共々修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士